数学の作り方 How to make Mathematics

第1章 複素多様体とは

多様体論では、局所的に Rn\mathbb R^n に見える空間を、なめらかな座標変換で貼り合わせました。この 「なめらか(CC^\infty)」を「正則(複素微分可能)」に取り替えると、まったく別の、はるかに硬い幾何が 立ち上がります。それが複素多様体です。複素解析で見た正則関数の異様な剛さ——一致の定理、 最大値原理、リウヴィル——が、そのまま空間の幾何に持ち込まれる。この章では、複素多様体を定義し、基本例に触れ、 実の多様体との違いを最初に体で感じます。

定義:正則座標で貼り合わせる

出発点は多様体論と同じですが、貼り合わせの条件だけを変えます。

定義 複素多様体

位相空間 XX複素多様体(複素次元 nn)とは、Cn\mathbb C^n の開集合への同相写像(チャート) φα ⁣:UαCn\varphi_\alpha\colon U_\alpha\to\mathbb C^n の族で覆われ、重なりでの座標変換 φβφα1 ⁣:φα(UαUβ)φβ(UαUβ)\varphi_\beta\circ\varphi_\alpha^{-1}\colon\varphi_\alpha(U_\alpha\cap U_\beta)\to\varphi_\beta(U_\alpha\cap U_\beta) がすべて正則写像(各成分が複素微分可能)であること。複素次元 nn は実次元では 2n2nX,YX,Y 間の写像 ff正則写像とは、チャートで見て正則なこと。全単射で逆も正則なら双正則

「なめらか」を「正則」に強めただけ。ですが Cn\mathbb C^n の正則関数はコーシー–リーマン方程式を 満たす特別な関数なので、複素多様体は実の多様体よりずっと少なく、ずっと硬い。実の 2n2n 次元多様体に「複素構造を 入れる」ことは、いつでもできるわけではなく、できても本質的に一通りとは限りません(これが後の章の主題です)。

基本例:この分野の登場人物たち

複素幾何の主役となる例を、先に顔見せしておきます。

リーマン面(複素1次元)

複素 11 次元多様体をリーマン面という。C\mathbb C 自身、複素平面の開集合、そして 複素解析z\sqrt zlogz\log z の多価性を解消するために貼り合わせた曲面がこれ。 コンパクトなリーマン面は、穴の数(種数 gg)で位相的に分類される(球面 g=0g=0・トーラス g=1g=1・…)。

複素射影空間 ℂℙⁿ

CPn=(Cn+1{0})/C×\mathbb{CP}^n=(\mathbb C^{n+1}\setminus\{0\})/\mathbb C^\times——原点を通る複素直線の全体。斉次座標 [z0::zn][z_0:\cdots:z_n] で表し、n+1n+1 個のアフィンチャート zi0z_i\neq0 で覆う。座標変換が正則な、コンパクトな 複素多様体。代数幾何の舞台であり、複素幾何でも最重要のモデル空間。CP1\mathbb{CP}^1 は リーマン球面。

複素トーラス(楕円曲線)

複素平面 C\mathbb C を格子 Λ=Z+τZ\Lambda=\mathbb Z+\tau\mathbb Zτ\tau は上半平面の点)で割った商 C/Λ\mathbb C/\Lambda。 コンパクトな複素 11 次元多様体で、位相的にはトーラス、代数的には楕円曲線。最も単純な非自明な コンパクト複素多様体で、この分野の実験台。

複素トーラスを装置で見てみましょう。格子 Λ=Z+τZ\Lambda=\mathbb Z+\tau\mathbb Z の基本平行四辺形の向かい合う辺を 貼り合わせると、ドーナツ(トーラス)になります。パラメータ τ\tau を動かすと、複素構造そのものが変わる ——同じ「トーラス」でも、τ\tau が違えば別の楕円曲線です。

面白いのは、τ\tauτ+1\tau+1τ\tau1/τ-1/\tau同じ楕円曲線を与えること(格子が一致・相似)。 「どの τ\tau が本当に違う複素構造か」を分類する問題——これがモジュライの考え方で、複素幾何が 「空間そのものの分類」へ向かう入口です。ボタンで確かめてください。

正則性がもたらす硬さ

複素多様体が実の多様体と決定的に違うのは、正則関数がほとんど存在しないことです。コンパクトな複素多様体では、 次の驚くべき事実が成り立ちます。

定理 コンパクト複素多様体上の正則関数は定数のみ

連結でコンパクトな複素多様体 XX 上の大域的な正則関数は、定数に限る

証明

正則関数 f ⁣:XCf\colon X\to\mathbb C を考える。f|f| は連続でコンパクト XX 上で最大値を取る。その最大点の近傍で、 チャートを通せば ffCn\mathbb C^n の開集合上の正則関数で、複素解析最大値原理より、 内点で最大に達する正則関数は局所定数。連結性から ffXX 全体で定数。

多様体論では、11 の分割を使っていくらでもなめらかな関数を作れました。ところが複素の世界では、 正則性が強すぎて、コンパクト空間上には定数しか正則関数がない。この「関数が足りない」という事態こそ、複素 幾何の難しさであり面白さの源です。関数の代わりに何を使うのか——答えは正則な微分形式(第3章)と 正則直線束の切断(第10章)で、これらが複素多様体の幾何を担う主役になります。関数論的な自由さを失う代わりに、 剛い構造がもたらす豊かな不変量(ホッジ数・チャーン類)を手にするのが、この分野の物語です。

注意 つまずきポイント

  • 複素次元 nn = 実次元 2n2n。複素 11 次元のリーマン面は、実 22 次元の曲面。次元の数え方で混乱しやすい。
  • 正則構造は一意でも自明でもない。同じ実多様体(トーラス)に、τ\tau ごとに異なる複素構造が入る。「複素 構造を入れる」こと自体が幾何的な選択で、その分類がモジュライ。
  • 関数が足りないのが複素幾何の宿命。コンパクトだと正則関数は定数だけ。だから関数論でなく、微分形式・ 直線束・コホモロジーで幾何を記述する。実の多様体の感覚をそのまま持ち込まない。

この章のまとめ

  • 複素多様体=座標変換が正則な多様体。「なめらか」を「複素微分可能」に強めると、複素解析の硬さが 幾何に持ち込まれる。複素次元 nn は実次元 2n2n
  • 基本例:リーマン面(複素1次元、種数で分類)、CPn\mathbb{CP}^n(コンパクトなモデル空間)、 複素トーラス C/Λ\mathbb C/\Lambda(楕円曲線、最も単純な実験台、τ\tau でモジュライ)。
  • コンパクト複素多様体上の正則関数は定数のみ(最大値原理)。関数が足りないのが宿命で、代わりに正則形式・ 直線束・コホモロジーで幾何を担う。

次章は、「実の多様体に複素構造を入れる」とはどういうことかを、接空間のレベルで正確にします。90°90° 回転 JJ概複素構造)と、それがいつ本物の複素多様体を与えるか(ニューランダー–ニーレンバーグの可積分性)を見ます。