第2章 概複素構造と可積分性
前章で「複素構造を入れることは自明でない」と述べました。ではそれを厳密に捉えましょう。複素数 を掛ける という操作は、 の上では「 回転」でした。この回転を、多様体の各点の接空間に用意した ものが概複素構造 です。 があれば「 を掛ける」真似ができる。でも、それが本物の複素多様体 (正則座標が取れる)を与えるとは限らない。 が“可積分”であることが必要で、それを測るのが ニューランダー–ニーレンバーグの定理です。局所と大域、線形代数と解析の橋渡しを見ます。
概複素構造:各点での「iを掛ける」
の正則構造は、接空間で「 を掛ける」線形写像として現れます。 を二回掛けると 。これを 一般の多様体に移植します。
定義 概複素構造
実 次元多様体 の各点の接空間 に、なめらかに依存する線形写像 で を満たすものを与えたとき、 を概複素構造、 を概複素多様体という。 は「接ベクトルを 回す( を掛ける)」操作。
は「」の接空間版です。 があれば、実接空間を「複素ベクトル空間」とみなせる( を の作用とする)。ただし、これは各点でのバラバラな線形代数のデータにすぎません。これらが近くの点どうしで うまく噛み合って、共通の正則座標を生むかどうかは、まったく別の問題です。
(1,0) と (0,1):J の固有空間分解
の情報を扱いやすくするため、接空間を複素化して で対角化します。 なので の固有値は 。
定義 正則・反正則接ベクトル
複素化した接空間 を の固有空間に分ける: を正則接ベクトル( が張る)、 を反正則接ベクトル ( が張る)という。。
この分解が、以降すべての「 型」(第3章)の源です。 では が 、 が で張られ、 「正則方向」と「反正則方向」がきれいに分かれます。概複素構造 は、この分解を各点で用意する装置だと 思えます。問題は、この分解が局所的に の標準的な分解と一致する座標を取れるか、です。
可積分性:J が本物の複素構造になる条件
各点での (線形代数)から、近傍全体で通用する正則座標(解析)へ——この飛躍が可能なのはいつか。障害を測るのが ナイエンハウス・テンソルで、それが消えることが条件です。
定義 ナイエンハウス・テンソルと可積分性
概複素構造 のナイエンハウス・テンソルを、ベクトル場 に対し で定める( はリー括弧)。 のとき は可積分という。同値: がリー括弧で閉じる()。
ナイエンハウス・テンソルは、多様体論のフロベニウスの定理(分布が積分可能 ⟺ 括弧で閉じる)と 同じ精神です。「反正則方向 が括弧で閉じているか」——閉じていれば、その方向に沿って“葉”が張れ、 正則座標が取れる。閉じていなければ、 は各点では の真似をできても、近傍で整合する正則座標を持てません。
定理 ニューランダー–ニーレンバーグの定理
概複素構造 が可積分()であることは、 が複素多様体であること——各点のまわりに、 が標準的な複素構造に一致する正則座標が取れること——と同値。
これは深い定理です。「各点での線形データ()が滑らかに繋がっている」という一見弱い条件から、「大域的に 正則な座標系が存在する」という強い結論を引き出す。証明は偏微分方程式( 方程式、第3章)の 可解性に帰着し、決して易しくありません。ですが結論は明快です——複素多様体とは、可積分な概複素構造を持つ 多様体にほかならない。 という代数的データと、正則座標という解析的データが、可積分性を橋として結ばれます。
注意 可積分でない概複素構造
を持つが可積分でない()多様体は実在する。 次元球面 は概複素構造を持つが、それが 可積分か( が複素多様体になるか)は長年の未解決問題。概複素多様体は複素多様体より真に広く、 シンプレクティック幾何(両立する を選ぶ)で重要な役を果たす。
注意 つまずきポイント
- は「 を掛ける」操作。 が の接空間版。各点でのデータで、これだけでは 「概」複素構造にすぎない。
- 可積分性が本物への鍵。 がリー括弧で閉じる()とき、初めて正則座標が取れて複素多様体に なる。フロベニウスの定理と同じ「括弧で閉じる」構図。
- 分解は複素化してから。実接空間そのものでなく で を対角化する。 この分解が次章の 形式・ドルボー作用素の土台。
この章のまとめ
- 概複素構造 ()=各点の接空間で「 を掛ける( 回転)」操作。実 次元多様体に 用意する。
- 複素化した接空間は の固有空間に分解 (正則・反正則方向、固有値 )。以降の 型の源。
- 可積分性:ナイエンハウス・テンソル ⟺ がリー括弧で閉じる。ニューランダー– ニーレンバーグにより、これが が本物の複素多様体であることと同値。
- 概複素多様体は複素多様体より広い( の可積分性は未解決)。(代数)と正則座標(解析)を可積分性が結ぶ。
次章は、この 分解を微分形式に持ち上げ、形式を 型に細分します。外微分 が と に分かれ、正則性が という一本の方程式に凝縮されます。