数学の作り方 How to make Mathematics

第2章 概複素構造と可積分性

前章で「複素構造を入れることは自明でない」と述べました。ではそれを厳密に捉えましょう。複素数 ii を掛ける という操作は、C=R2\mathbb C=\mathbb R^2 の上では「90°90° 回転」でした。この回転を、多様体の各点の接空間に用意した ものが概複素構造 JJ です。JJ があれば「ii を掛ける」真似ができる。でも、それが本物の複素多様体 (正則座標が取れる)を与えるとは限らない。JJ が“可積分”であることが必要で、それを測るのが ニューランダー–ニーレンバーグの定理です。局所と大域、線形代数と解析の橋渡しを見ます。

概複素構造:各点での「iを掛ける」

Cn\mathbb C^n の正則構造は、接空間で「ii を掛ける」線形写像として現れます。ii を二回掛けると 1-1。これを 一般の多様体に移植します。

定義 概複素構造

2n2n 次元多様体 MM の各点の接空間 TpMT_pM に、なめらかに依存する線形写像 Jp ⁣:TpMTpMJ_p\colon T_pM\to T_pMJp2=idJ_p^2=-\mathrm{id} を満たすものを与えたとき、JJ概複素構造(M,J)(M,J)概複素多様体という。 JJ は「接ベクトルを 90°90° 回す(ii を掛ける)」操作。

J2=1J^2=-1 は「i2=1i^2=-1」の接空間版です。JJ があれば、実接空間を「複素ベクトル空間」とみなせる(JJii の作用とする)。ただし、これは各点でのバラバラな線形代数のデータにすぎません。これらが近くの点どうしで うまく噛み合って、共通の正則座標を生むかどうかは、まったく別の問題です。

(1,0) と (0,1):J の固有空間分解

JJ の情報を扱いやすくするため、接空間を複素化して JJ で対角化します。J2=1J^2=-1 なので JJ の固有値は ±i\pm i

定義 正則・反正則接ベクトル

複素化した接空間 TpMCT_pM\otimes\mathbb CJJ の固有空間に分ける: TpMC=Tp1,0Tp0,1,T1,0={v:Jv=iv}, T0,1={v:Jv=iv}.T_pM\otimes\mathbb C=T^{1,0}_p\oplus T^{0,1}_p,\qquad T^{1,0}=\{v:Jv=iv\},\ T^{0,1}=\{v:Jv=-iv\}. T1,0T^{1,0}正則接ベクトル/zj\partial/\partial z_j が張る)、T0,1T^{0,1}反正則接ベクトル/zˉj\partial/\partial\bar z_j が張る)という。T1,0=T0,1\overline{T^{1,0}}=T^{0,1}

この分解が、以降すべての「(p,q)(p,q) 型」(第3章)の源です。Cn\mathbb C^n では T1,0T^{1,0}/z1,,/zn\partial/\partial z_1,\dots,\partial/\partial z_nT0,1T^{0,1}/zˉ1,\partial/\partial\bar z_1,\dots で張られ、 「正則方向」と「反正則方向」がきれいに分かれます。概複素構造 JJ は、この分解を各点で用意する装置だと 思えます。問題は、この分解が局所的に Cn\mathbb C^n の標準的な分解と一致する座標を取れるか、です。

可積分性:J が本物の複素構造になる条件

各点での JJ(線形代数)から、近傍全体で通用する正則座標(解析)へ——この飛躍が可能なのはいつか。障害を測るのが ナイエンハウス・テンソルで、それが消えることが条件です。

定義 ナイエンハウス・テンソルと可積分性

概複素構造 JJナイエンハウス・テンソルを、ベクトル場 X,YX,Y に対し NJ(X,Y)=[X,Y]+J[JX,Y]+J[X,JY][JX,JY]N_J(X,Y)=[X,Y]+J[JX,Y]+J[X,JY]-[JX,JY] で定める([,][\,\cdot\,,\cdot\,] はリー括弧)。NJ0N_J\equiv0 のとき JJ可積分という。同値: T0,1T^{0,1}リー括弧で閉じる[T0,1,T0,1]T0,1[T^{0,1},T^{0,1}]\subseteq T^{0,1})。

ナイエンハウス・テンソルは、多様体論のフロベニウスの定理(分布が積分可能 ⟺ 括弧で閉じる)と 同じ精神です。「反正則方向 T0,1T^{0,1} が括弧で閉じているか」——閉じていれば、その方向に沿って“葉”が張れ、 正則座標が取れる。閉じていなければ、JJ は各点では ii の真似をできても、近傍で整合する正則座標を持てません。

定理 ニューランダー–ニーレンバーグの定理

概複素構造 JJ が可積分(NJ0N_J\equiv0)であることは、(M,J)(M,J)複素多様体であること——各点のまわりに、 JJ が標準的な複素構造に一致する正則座標が取れること——と同値。

これは深い定理です。「各点での線形データ(JJ)が滑らかに繋がっている」という一見弱い条件から、「大域的に 正則な座標系が存在する」という強い結論を引き出す。証明は偏微分方程式(ˉ\bar\partial 方程式、第3章)の 可解性に帰着し、決して易しくありません。ですが結論は明快です——複素多様体とは、可積分な概複素構造を持つ 多様体にほかならないJJ という代数的データと、正則座標という解析的データが、可積分性を橋として結ばれます。

注意 可積分でない概複素構造

J2=1J^2=-1 を持つが可積分でない(NJ0N_J\neq0)多様体は実在する。66 次元球面 S6S^6 は概複素構造を持つが、それが 可積分か(S6S^6 が複素多様体になるか)は長年の未解決問題。概複素多様体は複素多様体より真に広く、 シンプレクティック幾何(両立する JJ を選ぶ)で重要な役を果たす。

注意 つまずきポイント

  • JJ は「ii を掛ける」操作J2=1J^2=-1i2=1i^2=-1 の接空間版。各点でのデータで、これだけでは 「概」複素構造にすぎない。
  • 可積分性が本物への鍵T0,1T^{0,1} がリー括弧で閉じる(NJ=0N_J=0)とき、初めて正則座標が取れて複素多様体に なる。フロベニウスの定理と同じ「括弧で閉じる」構図。
  • (1,0)/(0,1)(1,0)/(0,1) 分解は複素化してから。実接空間そのものでなく TpMCT_pM\otimes\mathbb CJJ を対角化する。 この分解が次章の (p,q)(p,q) 形式・ドルボー作用素の土台。

この章のまとめ

  • 概複素構造 JJJ2=1J^2=-1)=各点の接空間で「ii を掛ける(90°90° 回転)」操作。実 2n2n 次元多様体に 用意する。
  • 複素化した接空間は JJ の固有空間に分解 TC=T1,0T0,1T\otimes\mathbb C=T^{1,0}\oplus T^{0,1}(正則・反正則方向、固有値 ±i\pm i)。以降の (p,q)(p,q) 型の源。
  • 可積分性:ナイエンハウス・テンソル NJ=0N_J=0T0,1T^{0,1} がリー括弧で閉じる。ニューランダー– ニーレンバーグにより、これが (M,J)(M,J) が本物の複素多様体であることと同値。
  • 概複素多様体は複素多様体より広い(S6S^6 の可積分性は未解決)。JJ(代数)と正則座標(解析)を可積分性が結ぶ。

次章は、この T1,0/T0,1T^{1,0}/T^{0,1} 分解を微分形式に持ち上げ、形式を (p,q)(p,q)に細分します。外微分 dd\partialˉ\bar\partial に分かれ、正則性が ˉf=0\bar\partial f=0 という一本の方程式に凝縮されます。