数学の作り方 How to make Mathematics

第1章 なめらかな世界とサードの定理

位相幾何学は「連続な変形で保たれる形」を調べました。コーヒーカップとドーナツは 同じ——連続の世界では、形はぐにゃぐにゃに潰せます。ところが、写像になめらかさ(微分可能性)を課すと、 連続だけでは見えなかった構造が一気に立ち上がる。「毛の生えた球はきれいに撫でつけられない」「nn 次元多様体は R2n+1\mathbb{R}^{2n+1} に埋め込める」——こうした定理は、微分の情報があって初めて言えます。この分野の全土台となる 二つの事実、正則値の逆像は多様体サードの定理から始めましょう。

なぜ「なめらかさ」でものが見えるのか

連続写像は病的になれます。空間充填曲線は、線分を正方形いっぱいに塗りつぶす——11 次元が 22 次元に 化けてしまう。次元という基本的な情報すら、連続の世界では潰れます。ところが CC^\infty 級(何回でも微分できる)に 限ると、微分=線形近似が各点で使えます。写像 ff の一点での振る舞いは、ヤコビ行列 dfxdf_x という 線形写像でほぼ捉えられる。「局所的には線形代数」——この一手が、次元を保ち、逆像の形を制御し、 病的な現象を排除します。微分位相幾何とは、この局所線形近似を大域的な形の情報に翻訳する技術です。

多様体論で導入した道具を思い出しておきます。mm 次元多様体 MMnn 次元多様体 NN の間の なめらかな写像 f ⁣:MNf\colon M\to N、各点での微分 dfx ⁣:TxMTf(x)Ndf_x\colon T_xM\to T_{f(x)}N(接空間の間の線形写像)。 この dfxdf_x の階数が、ff の局所的な素性を決めます。

正則値の逆像は部分多様体

方程式 f(x)=yf(x)=y の解集合——逆像 f1(y)f^{-1}(y)——は、いつ「きれいな図形(多様体)」になるのか。答えの鍵は、 yy正則値かどうかです。

定義 正則値・臨界値

なめらかな f ⁣:MNf\colon M\to N に対し、点 xMx\in M臨界点とは dfxdf_x が全射でないこと。 臨界点の像を臨界値という。臨界値でない yNy\in N——すなわち f1(y)f^{-1}(y) 上のすべての点で dfdf が 全射——を正則値という(f1(y)=f^{-1}(y)=\varnothingyy も空虚に正則値とする)。

定理 正則値定理(前像定理)

yNy\in Nf ⁣:MmNnf\colon M^m\to N^n の正則値なら、逆像 f1(y)f^{-1}(y)MM部分多様体で、その次元は mnm-n。 さらに各点 xf1(y)x\in f^{-1}(y) での接空間は Txf1(y)=kerdfxT_x f^{-1}(y)=\ker df_x

なぜ成り立つのか。dfxdf_x が全射(階数 nn)なら、陰関数定理により、xx の近くで ff は 適当な座標で「最初の nn 座標への射影 (x1,,xm)(x1,,xn)(x_1,\dots,x_m)\mapsto(x_1,\dots,x_n)」に見える。射影の逆像は 残り mnm-n 座標の張る平面——だから f1(y)f^{-1}(y) は局所的に Rmn\mathbb{R}^{m-n}(mn)(m-n) 次元多様体です。 「方程式を nn 本課すと次元が nn 下がる」という素朴な期待が、dfdf の全射性のもとで厳密になる。

これは強力な多様体製造機です。球面 Sn=f1(1)S^{n}=f^{-1}(1)f(x)=x2f(x)=|x|^211 は正則値)、 特殊直交群やリー群 SLn=det1(1)\mathrm{SL}_n=\det^{-1}(1)——多くの重要な多様体が、正則値の逆像として 一挙に「多様体である」と保証されます。問題は**「正則値はどれくらいあるのか」**。もし正則値が稀なら、この機械は 使いものになりません。ここでサードの定理が決定的な答えを出します。

サードの定理:臨界値はほとんど無い

定理 サードの定理

なめらかな写像 f ⁣:MNf\colon M\to N臨界値の集合は、NN の中で測度 00である。 したがって、正則値は NN の中でほとんどいたるところに存在する(正則値全体は稠密で、補集合は測度 00)。

「臨界値(= f1f^{-1} が潰れる、悪い yy)は、無視できるほど少ない」。測度 00 とは 測度論の言葉で「どんなに小さな ε\varepsilon でも、総体積 ε\varepsilon 未満の箱で覆える」こと。 だから正則値は yy をわずかに動かせば必ず見つかる。正則値定理と組み合わせると——逆像はほとんどの yy で きれいな多様体になる。この分野のあらゆる議論が「一般の yy(正則値)を選ぶ」ことから始まるのは、 サードがそれを保証してくれるからです。

証明の心を一言で。臨界点では dfdf が全射でない=像が「痩せて」いる。テイラー展開で、臨界点の近傍が ff で写る先の体積は、次元が落ちるぶん急速に小さくなる。これを MM 全体で足し上げても総体積 00 に 収まる——というのが骨子です(次元に関する帰納法と、微分の有界性による体積評価。正確には ff が十分な 微分可能性を持つことが要る)。直感は「潰れる方向に写った像は、行き先で体積を持てない」。

注意 なぜ measure 0 が“ちょうど良い”のか

臨界値は「有限個」や「閉集合の余次元 1\ge1」とまでは言えない——実際いくらでも複雑になりうる。だが 測度 00 なら十分:補集合(正則値)が稠密で、しかも「二つの写像を同時に正則にする」ような可算個の条件を 課しても、測度 00 の可算和はまだ測度 00 なので生き残る。摂動して一般の位置に持ち込む議論(次章の横断性)が 自由にできるのは、この可算安定性のおかげ。

逆像の向きと、次章への布石

正則値の逆像 f1(y)f^{-1}(y) は、単に多様体であるだけでなく、MMNN が向き付けられていれば向きまで受け継ぎます (kerdfx\ker df_x の向きを、TxMT_xMTyNT_yN の向きの整合で定める)。この「向き付き逆像」が、第5章の写像度や 第6章の交叉数といった整数の不変量を生む源になります。

そして正則値定理は、より柔軟な形に一般化できます。「一点 yy の逆像」ではなく「部分多様体 ZNZ\subset N の逆像」を 考え、ffZZ と“素直に交わる”ときに f1(Z)f^{-1}(Z) が部分多様体になる——これが次章の横断性です。 正則値定理は、その最も単純な場合(ZZ が一点)に他なりません。

注意 つまずきポイント

  • 臨界点は「微分が 00」ではなく「dfdf が全射でない」。 N=RN=\mathbb R なら全射でない= df=0df=0 で一致するが、 一般の NN では階数が nn 未満という条件。目標の次元 nn に届かないこと。
  • 正則値は「値」、臨界点は「点」。 yy が正則値とは「f1(y)f^{-1}(y) 上のすべての点で dfdf が全射」。 一点でも臨界点があれば yy は臨界値。f1(y)=f^{-1}(y)=\varnothing は自動的に正則値。
  • サードは「臨界値」が測度 00(臨界点ではない)。 臨界MM の中で大きな集合になりうる(例:定数写像は 全点が臨界点)。潰れて小さくなるのは行き先=値の側。

この章のまとめ

  • なめらかさ=各点で線形近似 dfxdf_x が使えること。連続では潰れる次元や形が、微分の情報で制御できる。
  • 正則値定理yy が正則値(f1(y)f^{-1}(y) 上で dfdf が全射)なら f1(y)f^{-1}(y) は次元 mnm-n の部分多様体、 接空間は kerdfx\ker df_x。多くの重要多様体(球面・SLn\mathrm{SL}_n)の製造機。
  • サードの定理:臨界値は測度 00、正則値はほとんどいたるところ。摂動して一般の位置に持ち込む議論の土台。 測度 00 の可算安定性が効く。

次章は、正則値定理を「部分多様体との交わり」へ拡張します。写像や部分多様体が“素直に交わる”こと——横断性——を 定義し、サードを使って「摂動すれば必ず横断的にできる」ことを示します。