第1章 なめらかな世界とサードの定理
位相幾何学は「連続な変形で保たれる形」を調べました。コーヒーカップとドーナツは 同じ——連続の世界では、形はぐにゃぐにゃに潰せます。ところが、写像になめらかさ(微分可能性)を課すと、 連続だけでは見えなかった構造が一気に立ち上がる。「毛の生えた球はきれいに撫でつけられない」「 次元多様体は に埋め込める」——こうした定理は、微分の情報があって初めて言えます。この分野の全土台となる 二つの事実、正則値の逆像は多様体とサードの定理から始めましょう。
なぜ「なめらかさ」でものが見えるのか
連続写像は病的になれます。空間充填曲線は、線分を正方形いっぱいに塗りつぶす—— 次元が 次元に 化けてしまう。次元という基本的な情報すら、連続の世界では潰れます。ところが 級(何回でも微分できる)に 限ると、微分=線形近似が各点で使えます。写像 の一点での振る舞いは、ヤコビ行列 という 線形写像でほぼ捉えられる。「局所的には線形代数」——この一手が、次元を保ち、逆像の形を制御し、 病的な現象を排除します。微分位相幾何とは、この局所線形近似を大域的な形の情報に翻訳する技術です。
多様体論で導入した道具を思い出しておきます。 次元多様体 と 次元多様体 の間の なめらかな写像 、各点での微分 (接空間の間の線形写像)。 この の階数が、 の局所的な素性を決めます。
正則値の逆像は部分多様体
方程式 の解集合——逆像 ——は、いつ「きれいな図形(多様体)」になるのか。答えの鍵は、 が正則値かどうかです。
定義 正則値・臨界値
なめらかな に対し、点 が臨界点とは が全射でないこと。 臨界点の像を臨界値という。臨界値でない ——すなわち 上のすべての点で が 全射——を正則値という( の も空虚に正則値とする)。
定理 正則値定理(前像定理)
が の正則値なら、逆像 は の部分多様体で、その次元は 。 さらに各点 での接空間は 。
なぜ成り立つのか。 が全射(階数 )なら、陰関数定理により、 の近くで は 適当な座標で「最初の 座標への射影 」に見える。射影の逆像は 残り 座標の張る平面——だから は局所的に 、 次元多様体です。 「方程式を 本課すと次元が 下がる」という素朴な期待が、 の全射性のもとで厳密になる。
これは強力な多様体製造機です。球面 (、 は正則値)、 特殊直交群やリー群 ——多くの重要な多様体が、正則値の逆像として 一挙に「多様体である」と保証されます。問題は**「正則値はどれくらいあるのか」**。もし正則値が稀なら、この機械は 使いものになりません。ここでサードの定理が決定的な答えを出します。
サードの定理:臨界値はほとんど無い
定理 サードの定理
なめらかな写像 の臨界値の集合は、 の中で測度 である。 したがって、正則値は の中でほとんどいたるところに存在する(正則値全体は稠密で、補集合は測度 )。
「臨界値(= が潰れる、悪い )は、無視できるほど少ない」。測度 とは 測度論の言葉で「どんなに小さな でも、総体積 未満の箱で覆える」こと。 だから正則値は をわずかに動かせば必ず見つかる。正則値定理と組み合わせると——逆像はほとんどの で きれいな多様体になる。この分野のあらゆる議論が「一般の (正則値)を選ぶ」ことから始まるのは、 サードがそれを保証してくれるからです。
証明の心を一言で。臨界点では が全射でない=像が「痩せて」いる。テイラー展開で、臨界点の近傍が で写る先の体積は、次元が落ちるぶん急速に小さくなる。これを 全体で足し上げても総体積 に 収まる——というのが骨子です(次元に関する帰納法と、微分の有界性による体積評価。正確には が十分な 微分可能性を持つことが要る)。直感は「潰れる方向に写った像は、行き先で体積を持てない」。
注意 なぜ measure 0 が“ちょうど良い”のか
臨界値は「有限個」や「閉集合の余次元 」とまでは言えない——実際いくらでも複雑になりうる。だが 測度 なら十分:補集合(正則値)が稠密で、しかも「二つの写像を同時に正則にする」ような可算個の条件を 課しても、測度 の可算和はまだ測度 なので生き残る。摂動して一般の位置に持ち込む議論(次章の横断性)が 自由にできるのは、この可算安定性のおかげ。
逆像の向きと、次章への布石
正則値の逆像 は、単に多様体であるだけでなく、 と が向き付けられていれば向きまで受け継ぎます ( の向きを、 と の向きの整合で定める)。この「向き付き逆像」が、第5章の写像度や 第6章の交叉数といった整数の不変量を生む源になります。
そして正則値定理は、より柔軟な形に一般化できます。「一点 の逆像」ではなく「部分多様体 の逆像」を 考え、 が と“素直に交わる”ときに が部分多様体になる——これが次章の横断性です。 正則値定理は、その最も単純な場合( が一点)に他なりません。
注意 つまずきポイント
- 臨界点は「微分が 」ではなく「 が全射でない」。 なら全射でない= で一致するが、 一般の では階数が 未満という条件。目標の次元 に届かないこと。
- 正則値は「値」、臨界点は「点」。 が正則値とは「 上のすべての点で が全射」。 一点でも臨界点があれば は臨界値。 は自動的に正則値。
- サードは「臨界値」が測度 (臨界点ではない)。 臨界点は の中で大きな集合になりうる(例:定数写像は 全点が臨界点)。潰れて小さくなるのは行き先=値の側。
この章のまとめ
- なめらかさ=各点で線形近似 が使えること。連続では潰れる次元や形が、微分の情報で制御できる。
- 正則値定理: が正則値( 上で が全射)なら は次元 の部分多様体、 接空間は 。多くの重要多様体(球面・)の製造機。
- サードの定理:臨界値は測度 、正則値はほとんどいたるところ。摂動して一般の位置に持ち込む議論の土台。 測度 の可算安定性が効く。
次章は、正則値定理を「部分多様体との交わり」へ拡張します。写像や部分多様体が“素直に交わる”こと——横断性——を 定義し、サードを使って「摂動すれば必ず横断的にできる」ことを示します。