第1章 ベクトル空間
「矢印」だけがベクトルではない
高校で習うベクトルは、平面や空間の「矢印」でした。足せる、実数倍できる。 でも、よく見ると同じ操作ができるものが数学のあちこちに転がっています。
- 多項式 と は足せるし、 倍もできる。
- 関数 と も足せるし、定数倍できる。
- 連立一次方程式 の解たちも、足しても定数倍しても、また解になる。
矢印・多項式・関数・解——見た目はバラバラなのに、「足し算とスカラー倍」という操作について まったく同じように振る舞う。だったら、その共通の骨格だけを取り出して一度に扱えば、 一つの理論があらゆる場面で使い回せます。この「足せてスカラー倍できる集まり」の抽象形が ベクトル空間です。
中身(矢印か関数か)は忘れる。「足し算とスカラー倍が、素直な規則に従う」——それだけを見る。
定義:素直さを公理にする
「素直な規則」を書き下したものが公理です。身構える必要はありません。矢印で当たり前に 成り立っていたこと(順番を変えても同じ、 がある、逆向きがある…)を、そのままリスト化しただけです。
定義 ベクトル空間
体 ( や 。スカラーの世界)上のベクトル空間 とは、 足し算 とスカラー倍 が定義され、次を満たす集合: 交換・結合法則、零ベクトル の存在、逆ベクトル の存在、 、分配法則 、、 。 の要素をベクトルという。
大事なのは公理の暗記ではなく、「これらを満たしさえすれば、何であろうとベクトルとして扱える」 という一点。矢印の空間 、多項式全体 、関数の空間、行列全体——すべて この定義を満たすので、以降の定理がまるごと適用できます。これが抽象化の御利益です。
例 ベクトル空間のいろいろ
(数の組)、 行列全体、次数 以下の多項式全体 (次元 )、 区間上の連続関数全体 (無限次元)。最後の例のように、ベクトル空間は無限次元にもなる—— これが関数解析(→関数解析)への入り口になります。
部分空間:空間の中の空間
大きな空間の中で、それ自身またベクトル空間になっている部分に注目します。
定義 部分空間
の空でない部分集合 が部分空間とは、足し算とスカラー倍で の外に出ないこと: かつ 。 (この2条件だけ確認すればよい。特に が従う。)
部分空間は必ず原点 を通ります。 の中なら、原点を通る直線や平面が部分空間の典型。 原点を通らない平面は、足し算で外に出てしまうので部分空間ではありません。 「操作で外に出ない(閉じている)」という感覚が、線形代数を通じて何度も効いてきます。
一次結合・生成系・一次独立
ベクトルたちから新しいベクトルを作る唯一の方法が、足し算とスカラー倍の組み合わせです。
定義 一次結合と生成系
を の一次結合という。 これら全体が作る集合(張る空間)を と書き、これが 全体に等しいとき を の生成系という。
生成系は「これさえあれば、あとは足し算とスカラー倍で全部作れる」という部品セット。 ただし、部品にムダが混じっているかもしれません。そのムダを排除する概念が一次独立です。
定義 一次独立・一次従属
が のときしか起きないとき、 は一次独立という。そうでない(自明でない結合で が作れる)とき一次従属。
意味をつかみましょう。一次従属とは「あるベクトルが、他のベクトルたちの一次結合で書けてしまう」状態、 つまり部品にダブりがあるということ。一次独立は、どのベクトルも他では代用できない、 ムダのない部品セット。「 を作るには全係数 しかない」という一見奇妙な言い回しは、 「ダブりが無い」を式で正確に言うための、いちばん扱いやすい形なのです。
例 独立か従属か
で は一次従属( 番目= 番目+ 番目)。 は一次独立。多項式 も一次独立 ( がすべての で成り立つなら )。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- 一次独立は「互いに直交」ではない。 直交は内積(第10章)の話。独立は「ダブりが無い」だけで、 斜めに交わっていてよい。
- 生成系は多すぎてもよいが、一次独立は「これ以上増やせない上限」に関わる。 この2つが釣り合う ちょうどの部品セットが、次章の「基底」。
- 原点を通らない図形は部分空間でない。「 を含む・操作で閉じている」を必ず確認する。
この章のまとめ
- ベクトル空間は「足し算とスカラー倍が素直に振る舞う集まり」の抽象化。矢印・多項式・関数・解が すべて同じ理論で扱える。無限次元もある。
- 部分空間は「操作で外に出ない」部分集合(必ず原点を通る)。
- 生成系=全部を作れる部品セット、一次独立=ダブりの無い部品セット。「 の作り方が自明しかない」で独立を定義する。
次章は、この2つが釣り合った最良の部品セット——基底と、その個数として定まる次元を扱います。