数学の作り方 How to make Mathematics

第1章 非可換の世界へ

環論可換環論では、掛け算が ab=baab=ba を満たす世界を調べました。 整数、多項式、Z[5]\mathbb Z[\sqrt{-5}]——どれも順序を気にせず掛けられる。ところが数学と物理のいたるところに、 掛ける順番が結果を変える世界があります。行列、四元数、量子力学の演算子。この章では、まず非可換性に 具体的に出会い、可換環では決して起きない現象を観察して、「順序が効く世界をどう構造化するか」という この分野の問いを立てます。

三つの舞台:非可換はどこにいるか

非可換性は例外ではなく、むしろありふれています。三つの舞台で出会いましょう。

行列。 2×22\times2 行列 A=(0100)A=\begin{pmatrix}0&1\\0&0\end{pmatrix}B=(0010)B=\begin{pmatrix}0&0\\1&0\end{pmatrix} を掛けると AB=(1000)AB=\begin{pmatrix}1&0\\0&0\end{pmatrix}BA=(0001)BA=\begin{pmatrix}0&0\\0&1\end{pmatrix}ABBAAB\neq BA。行列の掛け算は 「先に何をするか」で結果が変わる——線形代数で写像の合成の順序が効いたのと同じことです。

四元数。 ハミルトンが発見した数体系 H={a+bi+cj+dk}\mathbb H=\{a+bi+cj+dk\} では、ij=kij=k だが ji=kji=-k。虚数単位が 三つあって互いに反可換。それでいて 00 以外のすべての元が逆元を持つ——後で見る斜体(可換でない“体”)の 最初の例です。

量子力学。 位置演算子 x^\hat x と運動量演算子 p^\hat px^p^p^x^=i0\hat x\hat p-\hat p\hat x=i\hbar\neq0 を満たす。 この非可換性(正準交換関係)が、「位置と運動量を同時に確定できない」という不確定性原理の数学的な正体です。 自然界の基本法則そのものが非可換なのです。

可換環では起きない現象

非可換になると、可換環の常識がいくつも崩れます。まず、イデアルに左右の区別が生まれます。

定義 左イデアル・右イデアル・両側イデアル

RR の部分加群 II

  • 左イデアルRIIRI\subseteq I(左から掛けて閉じる)、
  • 右イデアルIRIIR\subseteq I(右から掛けて閉じる)、
  • 両側イデアル:左かつ右イデアル。

可換環では三つが一致するが、非可換環では別物。剰余環 R/IR/I が作れるのは両側イデアルのときだけ。

可換環論では「イデアル」と言えば一種類でしたが、非可換では「どちら側から掛けるか」で三種に分かれる。この 区別が、非可換環論の議論を可換の場合よりずっと繊細にします。さらに、ABBAAB\neq BA から零因子も自然に現れる (上の A,BA,BA2=0A^2=0 で、00 でないのに二乗が消える冪零元)。可換環で大切だった「整域」の概念は、 非可換の世界ではあまり役に立たず、別の指導原理が要ります。

指導原理:単純環という「これ以上分けられない部品」

可換環論の指導原理は「素イデアル・局所化」でした。非可換環論の指導原理は違います。目指すのは 「複雑な非可換環を、単純な部品の組み合わせに分解する」こと。その“部品”にあたるのが単純環です。

定義 単純環

RR0\neq0)が単純環とは、両側イデアルが {0}\{0\}RR だけであること(真の両側イデアルを 持たない)。剰余で潰せる部分がない、「これ以上分けられない」環。

いちばん基本的な単純環が、体(や斜体)上の全行列環 Mn(D)M_n(D) です。Mn(D)M_n(D) には真の両側イデアルがない ——一見複雑な n2n^2 次元の代数が、実は「分解できない一つの塊」。この章の三つの舞台(行列・四元数・量子)は、 どれもこの全行列環と斜体に行き着きます。そして本分野前半の目標は、次の一点に集約されます。

注意 前半の目標を先に言う

「良い性質(半単純、第3章)を持つ非可換環は、必ず斜体上の全行列環の直積 Mn1(D1)××Mnr(Dr)M_{n_1}(D_1)\times\cdots\times M_{n_r}(D_r) に分解する」——これがアルティン–ウェダーバーンの定理(第4章)。 可換環論の素因数分解に相当する、非可換環の完全な構造定理。単純環(=行列環)が“素”の役を果たす。

なぜ「単純部品への分解」を目指すのか

可換環では、環を素イデアルで局所的に調べました。非可換では、その代わりに加群への作用を通して環を調べます。 「環 RR がどんな空間(加群)にどう作用するか」を見れば、RR の構造が読める——これは表現論の 発想そのものです。実際、群の表現論(マシュケの定理・既約表現)は、群環という非可換環の構造論の特別な場合に なります(第6章)。単純環=既約な作用の受け皿、という対応が、環と表現を結びつけます。次章から、この 「加群への作用」を軸に、半単純性へと議論を積み上げていきます。

注意 つまずきポイント

  • 非可換では左右を区別する。左イデアル・右イデアル・両側イデアル。剰余環を作れるのは両側イデアルだけ。 「イデアル」という言葉が指すものが、可換のときより繊細。
  • 整域の発想は捨てるABBAAB\neq BA の世界では零因子・冪零元が当たり前。「素イデアル」中心の可換環論とは 別の指導原理(単純環・半単純・行列環)で進む。
  • 単純環は“小さい”とは限らないMn(D)M_n(D)nn が大きければ次元も大きいが、両側イデアルの意味では 「分解できない一つの塊」。単純=サイズが小さいではなく、割れないの意。

この章のまとめ

  • 非可換性(abbaab\neq ba)は行列・四元数・量子力学の演算子にありふれて現れる。自然界の基本法則(不確定性 原理)そのものが非可換。
  • 可換環では起きない現象:イデアルの左右区別(両側イデアルだけが剰余環を作る)、零因子・冪零元の氾濫。 「整域」中心の発想は効かない。
  • 非可換環論の指導原理は「複雑な環を単純部品に分解する」こと。部品にあたるのが単純環(真の両側 イデアルなし)で、その典型が斜体上の全行列環 Mn(D)M_n(D)
  • 前半の目標=アルティン–ウェダーバーンの定理(半単純環は行列環の直積)。加群への作用を軸に積み上げる。

次章は、環を調べる主役の道具——加群を非可換の文脈で整え、「既約加群」「完全可約」「シューアの補題」という、 半単純性への三つの鍵を用意します。