第1章 相空間とシンプレクティック形式
振り子の状態は「角度」と「角速度(運動量)」の組で決まります。惑星なら「位置」と「運動量」。物理では、系の 状態全体がなす空間を相空間と呼びます。変分法のハミルトン力学で見たように、 運動は相空間の中の軌道として描かれました。この章では、その相空間に隠れた幾何構造——シンプレクティック 形式——を掘り起こします。リーマン幾何が「長さ」を測る計量を持つのに対し、 シンプレクティック幾何が測るのは向きのついた面積。距離ではなく“ねじれ”の幾何です。
相空間には自然な「面積」がある
相空間 を座標 (位置 ・運動量 )で表します。ここに、 リーマン計量とはまったく別の、位置と運動量を組にして測る量が自然に備わっています。
定義 標準シンプレクティック形式
上の 形式 を標準シンプレクティック形式という。各 平面での「向きのついた面積」を測り、 それらを足し合わせたもの。二つのベクトル に対し は、 が張る平行四辺形の ( 平面への射影の)符号つき面積。
計量 が対称(、長さ・角度を測る)だったのに対し、 は 反対称(、面積・向きを測る)です。とくに ——自分自身との 「面積」はゼロ。長さを測る計量と、面積を測るシンプレクティック形式は、幾何の測り方として根本的に異なります。 なぜ物理がこの反対称な形式を必要とするのかは、次章以降のハミルトン力学で明らかになります。
二つの条件:閉じて、非退化
一般の多様体上でこの構造を定義するには、 の本質的な性質を二つ抜き出します。
定義 シンプレクティック多様体
多様体 上の 形式 がシンプレクティック形式とは、次の二条件を満たすこと:
- 閉形式:。
- 非退化:各点で、 がすべての について成り立つのは のときだけ。
このとき をシンプレクティック多様体という。
二つの条件それぞれに意味があります。非退化性は「 が接空間の反対称な内積として退化しない」—— どの方向のベクトルも、必ずどれかと非ゼロの面積を作る。この条件から、後で「ハミルトニアン から運動 が一意に決まる」(第5章)ことが従います。閉形式 は複素幾何の ケーラー条件と同じ形で、これが「局所的に標準形に見える」(ダルブーの定理、第3章)ことと、ハミルトン流が を保つ(第5章)ことの源になります。非退化が“各点の”良さ、閉性が“つながり方”の良さです。
なぜ偶数次元か
非退化性は、シンプレクティック多様体の次元に強い制約を課します。
命題 シンプレクティック多様体は偶数次元・向き付け可能
シンプレクティック形式を持つ多様体は必ず偶数次元 であり、 ( 個の外積)が至るところ非ゼロの体積形式を与える。とくに向き付け可能。
証明
反対称双線形形式 が非退化なら、線形代数より、その表現行列は奇数次元では必ず 行列式 (反対称行列 は で、奇数次元だと )。 非退化=行列式非零だから、次元は偶数 。さらに非退化性から ——これが体積形式 (リウヴィル体積)を与え、向きを定める。
「相空間は位置と運動量が対になる」——だから次元は必ず偶数、という物理的直感が、反対称形式の非退化性から 数学的に出てきます。そして が体積形式になることは決定的です。ハミルトン流がこの体積を保存する (第5章のリウヴィルの定理)ことが、統計力学の基礎になります。距離を測らないのに体積は測れる——これが シンプレクティック幾何の面白さです。
リーマン幾何との対比
シンプレクティック幾何の性格を、リーマン幾何と対比して掴んでおきましょう。
注意 計量 g とシンプレクティック形式 ω
| リーマン計量 | シンプレクティック形式 | |
|---|---|---|
| 対称性 | 対称 | 反対称 |
| 測るもの | 長さ・角度 | 向きのついた面積 |
| 局所不変量 | 曲率(各点で異なりうる) | なし(ダルブーで標準形、第3章) |
| 主役 | 曲率・測地線 | 大域的な形・その上の運動 |
リーマンは「局所の曲がり」に情報があるが、シンプレクティックは局所的にはどこも同じ——情報は大域にある。 これが分野の性格を決定づける。
注意 つまずきポイント
- は反対称、 は対称。(自分との面積はゼロ)。計量の「長さ」の直感をそのまま 持ち込まない。測るのは面積・向き。
- 二条件の役割を区別。非退化=各点の良さ( から が決まる)、閉 =つながり方の良さ (ダルブー・流れが を保つ)。
- 偶数次元は必然。反対称非退化形式は偶数次元でしか存在しない。位置と運動量の対、という物理が数学に 刻まれている。
この章のまとめ
- 相空間(位置×運動量)には、自然なシンプレクティック形式 が備わる。 計量が長さを測る(対称)のに対し、 は向きのついた面積を測る(反対称)。
- 一般のシンプレクティック多様体 =閉()かつ非退化な 形式を持つ多様体。 非退化が各点の良さ、閉性がつながり方の良さ。
- 非退化性から次元は必ず偶数 、 が体積形式(リウヴィル体積)を与え向き付け可能。
- リーマンと違い局所不変量(曲率)を持たない——情報は大域にある。これが分野の性格。
次章は、まず一点の接空間だけを取り出し、線形シンプレクティック代数を調べます。標準形の存在、 シンプレクティック群 、そして次章のダルブーの定理の線形版を用意します。