第2章 線形シンプレクティック代数
多様体を調べる前に、まず一点の接空間だけを取り出して線形代数をします。シンプレクティック形式は各点で 「反対称・非退化な双線形形式」を与えるので、そういう形式を持つベクトル空間——シンプレクティックベクトル空間 ——の構造を尽くしておけば、次章のダルブーの定理(多様体版)への足場になります。鍵になる発見は、 すべての線形シンプレクティック空間が同じ標準形を持つこと。これが「局所に情報がない」という、この分野の 性格の線形版です。
シンプレクティックベクトル空間と標準形
定義 シンプレクティックベクトル空間
実ベクトル空間 と、その上の反対称・非退化な双線形形式 の組 をシンプレクティックベクトル空間という。反対称:、非退化: 。
計量つき空間(内積空間)は正規直交基底で標準形 になりました。シンプレクティック空間にも、 同様の標準基底があります。
定理 線形ダルブー(標準基底)
シンプレクティックベクトル空間 にはシンプレクティック基底 が取れて、 とくに は偶数次元 で、すべてのシンプレクティックベクトル空間は次元だけで決まる(同型)。
証明
を選ぶ。非退化性より となる がある。 が張る平面の -直交補空間 をとると、 で も シンプレクティック。次元に関する帰納法で に標準基底を取り、合わせて の標準基底を得る。
証明は内積空間のグラム–シュミットとそっくりです。ペア ——位置と運動量の対——を一組ずつ取り出して いく。結論が強烈です。シンプレクティックベクトル空間は、次元 さえ決めれば同型を除いて一意。内積空間が (符号を除き)次元で決まるのと同じで、シンプレクティック空間には「次元以外の局所的な情報がない」。これが 次章のダルブーの定理(曲率のような局所不変量がない)の線形版です。
シンプレクティック群 Sp(2n)
シンプレクティック形式を保つ線形変換を集めると、群になります。リーマン幾何の直交群 に対応する 存在です。
定義 シンプレクティック群
を保つ線形同型 ()の全体をシンプレクティック群 という。標準形では、行列 に対し を満たす行列の群。
はリー群で、次元は 。 のとき は ちょうど面積と向きを保つ線形変換 (行列式 )に一致します——「面積を保つ」という シンプレクティックの本質が、最小の場合にはっきり見える。物理では、ハミルトン系の時間発展や正準変換 (第6章)がこの群の元として現れ、「シンプレクティック性の保存」が力学の骨格になります。対応する リー環 は が対称となる行列 の全体です。
ラグランジュ部分空間:半分次元の等方的な平面
シンプレクティック空間には、計量空間にはない特殊な部分空間があります。第4章で中心的役割を果たす概念を、 線形のレベルで先取りします。
定義 等方・ラグランジュ部分空間
部分空間 が等方的とは ( 上で面積がすべて )。等方的な部分空間の 次元は高々 。次元がちょうど (=最大)の等方部分空間をラグランジュ部分空間という。
(自分との面積はゼロ)でしたが、ラグランジュ部分空間は「その上ではどの二ベクトルの面積も ゼロ」という、 が完全に消える最大の平面です。標準座標なら「位置だけの空間 」や 「運動量だけの空間 」がラグランジュ部分空間。半分の次元 を持つこの平面が、シンプレクティック 幾何のあらゆる場面(母関数・正準変換・不変量)で主役を務めます(第4章)。計量空間の直交補空間に相当する 役割を、シンプレクティックではラグランジュ部分空間が担うのです。
注意 つまずきポイント
- 標準形は次元だけで決まる。内積空間が次元(と符号)で決まるように、シンプレクティック空間は次元 で 同型を除き一意。局所的な不変量がない。
- 。 次元では「シンプレクティック=面積保存= 行列式 」。高次元でも本質は「(面積の集まり)を保つ」。
- ラグランジュ部分空間は半分次元・ が消える。等方的(面積ゼロ)で最大次元 。計量の直交補に あたる特別な平面で、第4章の主役。
この章のまとめ
- シンプレクティックベクトル空間 =反対称・非退化な双線形形式を持つ空間。シンプレクティック 基底 ()で標準形になり、次元 だけで同型を除き一意(局所に 情報がない、の線形版)。
- シンプレクティック群 = を保つ線形変換。 (面積保存)。力学の正準変換の受け皿。
- ラグランジュ部分空間= が完全に消える最大次元 の等方部分空間( など)。計量の 直交補にあたる特別な平面で、第4章の主役。
次章は、この線形の標準形を多様体全体に持ち上げます。ダルブーの定理——シンプレクティック多様体は 局所的にどこも標準形 に見える——を示し、リーマン幾何との決定的な違いを確立します。