第10章 グロモフの非圧縮定理
第3章のダルブーの定理は「局所には情報がない(何でも標準形)」と教えました。では大域はどうか。長らく、 シンプレクティック変換は「体積を保つ」以外に制約がないのでは、と思われていました。1985 年、グロモフが それを覆します——大きな球は、細い管(シリンダー)にシンプレクティックに押し込めない。体積だけ見れば いくらでも押し込めるのに、シンプレクティック構造がそれを禁じる。「局所は自由、大域は硬い」というこの分野の 性格が、最も劇的に現れる定理です。シンプレクティック剛性の発見を見ます。
問題設定:球は管に入るか
二つの領域を用意します。半径 の球 と、半径 の( 番目の座標平面方向の) シリンダー ——これは 平面の円板 残りの方向すべて、という 「細いが無限に長い管」です。 を の中にシンプレクティックに埋め込めるか、と問います。
まず体積で考えましょう。 は無限に長いので体積は無限大。 の体積は有限。だから体積の制約だけ なら、どんなに大きな球 でも、細い管 ( が小さくても長い)に楽々入るはずです。実際、体積を 保つ微分同相なら押し込めます(球をソーセージ状に細長く変形すればよい)。ところが——。
グロモフの非圧縮定理
定理 グロモフの非圧縮定理(1985)
球 がシリンダー の中にシンプレクティックに埋め込める( を 満たす埋め込みがある)ための必要十分条件は すなわち、いくら体積に余裕があっても、球の半径が管の半径を超えたら、シンプレクティックには押し込めない。
これは衝撃的です。体積では は に無限の余裕で入るのに、シンプレクティック構造は ——「球の“太さ”が管の“太さ”以下」——を要求する。管の断面( 平面の円板)の半径 が、 球の半径 を押しとどめる。体積という粗い量では見えない、断面積のような繊細な量が保存されているのです。 「シンプレクティック変換は体積を保つ以外に制約がない」という予想は、これで完全に否定されました。ボールを どうソーセージに引き伸ばそうとしても、 方向の“太さ”だけは細くできない——シンプレクティックの 剛性です。
シンプレクティック容量:新しい不変量
非圧縮定理は、体積とは別の不変量の存在を示唆します。それがシンプレクティック容量です。
定義 シンプレクティック容量
シンプレクティック多様体の各部分集合 に非負の数 を対応させ、(1) なら (単調性)、(2) シンプレクティック変換で不変、(3) (正規化)を満たすものを シンプレクティック容量という。グロモフの定理は、こうした容量の存在と同値。
容量は「シンプレクティックな太さ」を測る不変量です。決定的なのは (3)——球とシリンダーで容量が同じ (断面積)であること。これが非圧縮を生みます: なら単調性から 、すなわち 。体積が 次元の量( のオーダー)なのに対し、 容量は** 次元的な量**()——次元によらず「面積のスケール」で効く。第1章で「 は面積を測る」と 言いましたが、その面積が大域的な埋め込みの障害として立ちはだかるのです。
注意 剛性と柔性のせめぎ合い
シンプレクティック幾何には二つの顔がある。
- 柔性(flexibility):ダルブー(局所は標準形)、体積さえ合えば体積保存変形は自由——「柔らかい」側面。
- 剛性(rigidity):グロモフの非圧縮、容量による障害——「硬い」側面。 この二つのせめぎ合いが、シンプレクティック位相の中心テーマ。局所の柔らかさと大域の硬さが同居する、 微妙で豊かな幾何。
注意 つまずきポイント
- 体積 ≠ シンプレクティック障害。体積を保つだけなら球は管に入る。シンプレクティックだと 。 体積は 次元的、容量は 次元的(面積スケール)で、後者が効く。
- 剛性はダルブーと矛盾しない。局所は何でも標準形(柔)、大域の埋め込みは硬い(剛)。「局所自由・大域 硬い」の典型。
- 容量は体積と独立な不変量。(次元によらず)。体積では区別できないものを 区別する。
この章のまとめ
- グロモフの非圧縮定理:球 がシリンダー にシンプレクティックに埋め込める ⟺ 。 体積には無限の余裕があっても、シンプレクティック構造が押し込みを禁じる。
- 「シンプレクティック変換は体積保存以外に制約なし」という予想を否定。 方向の“太さ”は細くできない ——シンプレクティック剛性。
- シンプレクティック容量:体積と独立な不変量。(面積スケール、次元によらず)。 単調性から非圧縮が従う。
- シンプレクティック幾何は柔性(ダルブー・体積)と剛性(非圧縮・容量)のせめぎ合い。局所自由・大域硬い。
グロモフはこの定理を、まったく新しい道具——擬正則曲線——で証明しました。次章は、その擬正則曲線と、 それが生んだフレアーホモロジー・アーノルド予想という現代シンプレクティック幾何の中心へ進みます。