数学の作り方 How to make Mathematics

第9章 概複素構造と両立計量

後半、大域シンプレクティック幾何に入ります。シンプレクティック形式 ω\omega には距離がありませんでした (第1章)。でも解析の道具を使うには、計量が欲しい。そこで ω\omega両立する概複素構造 JJ を選びます。 JJ を通して ω(,J)=g\omega(\cdot,J\cdot)=g という計量が生まれ、複素幾何の概複素構造と手を結ぶ。 決定的なのは、この JJ可積分でなくてよい(本物の複素多様体でなくてよい)こと。そのゆるさが、 第11章の擬正則曲線という強力な解析の道具を可能にします。ω\omegaJJgg の三者が織りなす舞台を用意します。

両立する概複素構造

複素幾何で、概複素構造 JJJ2=1J^2=-1、各点で「ii を掛ける」)を学びました。それを シンプレクティック形式と“調和”させます。

定義 ω と両立する概複素構造

シンプレクティック多様体 (M,ω)(M,\omega) の概複素構造 JJJ2=idJ^2=-\mathrm{id})が ω\omega両立する とは、

  1. ω(JX,JY)=ω(X,Y)\omega(JX,JY)=\omega(X,Y)JJω\omega を保つ)、
  2. g(X,Y):=ω(X,JY)g(X,Y):=\omega(X,JY) が正定値(リーマン計量になる)。

を満たすこと。このとき (ω,J,g)(\omega,J,g) が調和し、MM概ケーラー多様体になる。

複素幾何第5章の三位一体 ω(X,Y)=g(JX,Y)\omega(X,Y)=g(JX,Y) と同じ関係が、ここでも成り立ちます。 違いは向き——複素幾何では計量 ggJJ(可積分)から ω\omega を作りましたが、シンプレクティックでは ω\omega が先にあり、それに合わせて JJ(と gg)を選ぶ。ω\omegaJJgg のうち二つを決めれば三つ目が 決まる、という関係は同じです。

両立する J は必ず存在し、しかも本質的に一つ

両立する JJ が選べるか、選び方に恣意性はないか——これが解析の道具として使うための要点です。答えは 「必ず存在し、選択に本質的な曖昧さはない」。

定理 両立する J の空間は可縮

任意のシンプレクティック多様体で、ω\omega と両立する概複素構造 JJ必ず存在する。さらに、両立する JJ 全体の空間 J(ω)\mathcal J(\omega)可縮(一点に連続的に縮められる)。

証明

(骨子)任意にリーマン計量 g0g_0 を取り、ω\omegag0g_0 から作る歪対称作用素を極分解すると、ω\omega と 両立する JJ が標準的に得られる(存在)。この構成は g0g_0 に連続的に依存し、計量の空間が凸(可縮)なので、 J(ω)\mathcal J(\omega) も可縮。

可縮であることが決定的です。「JJ の選び方に本質的な自由度がない」ので、JJ を選んで定義した不変量 (第11章のグロモフ–ウィッテン不変量・フレアーホモロジー)は、実は JJ の選び方によらない——ホモトピーで 繋がっているから。恣意的に見える JJ の選択が、最終的な不変量には影響しない。この事実が、JJ を「計算の ための補助道具」として自由に使うことを許します。第10・11章の剛性の議論は、この JJ の存在と可縮性の上に 成り立っています。

可積分でなくてよい、というゆるさ

ここで、シンプレクティックと複素幾何の決定的な違いが現れます。

注意 ケーラーとの関係・ずれ

  • ケーラー多様体複素幾何)=ω\omegaJJgg が両立し、かつ JJ が可積分 (ニューランダー–ニーレンバーグ、本物の複素多様体)。
  • 概ケーラー(本章)=両立するが JJ は可積分でなくてよいdω=0d\omega=0 は課すが JJ の可積分性 (NJ=0N_J=0)は課さない。

シンプレクティック幾何は、この「JJ が可積分でなくてよい」ぶんケーラーより広い。多くのシンプレクティック 多様体はケーラー計量を持たない(第10章以降の主対象)。だが両立する JJ はいつでも取れるので、複素幾何の 解析(ˉ\bar\partial、正則曲線)を“概”版として持ち込める。この絶妙なゆるさが後半の鍵。

JJ を可積分に取れればケーラー多様体——複素幾何の豊かなホッジ理論が使えます。しかし 一般のシンプレクティック多様体では JJ を可積分にできない。それでも「概」複素構造 JJ は取れるので、 JJ-正則な曲線(第11章)という一次元的な正則対象は定義できる。可積分性を諦める代わりに、曲線という 低次元の正則対象で解析を回す——これがグロモフの革命的なアイデアで、次章以降で開花します。

注意 つまずきポイント

  • ω\omega が先、JJ は後から選ぶ。複素幾何は JJ(可積分)が主役だが、シンプレクティックは ω\omega が 主役で JJ は補助。ω(,J)=g\omega(\cdot,J\cdot)=g で計量を借りる。
  • JJ は可積分でなくてよい。ここがケーラーとの分かれ目。概ケーラー ⊋ ケーラー。可積分性を課さない ゆるさが擬正則曲線を可能にする。
  • JJ の空間が可縮 → 不変量が JJ によらない。補助的に選んだ JJ の恣意性が、最終的な不変量には 効かない。だから安心して JJ を使える。

この章のまとめ

  • シンプレクティック形式に両立する概複素構造 JJJ2=1J^2=-1ω(JX,JY)=ω(X,Y)\omega(JX,JY)=\omega(X,Y)g=ω(,J)>0g=\omega(\cdot,J\cdot)>0)を選ぶと、計量 gg が生まれ概ケーラー多様体になる。ω,J,g\omega,J,g は三位一体。
  • 両立する JJ必ず存在し、その空間は可縮。ゆえに JJ で定義した不変量は JJ の選び方によらない (補助道具として自由に使える)。
  • ケーラー(複素幾何)と違い、JJ可積分でなくてよい。概ケーラー ⊋ ケーラーで、 シンプレクティックは広い。可積分性を諦める代わりに、正則曲線で解析する道が開ける。

次章は、この JJ と計量を武器に、シンプレクティック幾何の最も驚くべき大域現象——グロモフの非圧縮定理を 見ます。体積では説明できない、シンプレクティック特有の「剛性」の発見です。