第10章 加法圏とアーベル圏
ホモロジー代数の舞台を圏で作る
加群論やホモロジー代数では、加群の完全系列・核・像・商を 自在に扱いました。これらの操作の共通の舞台を、圏の言葉だけで定義したい。それがアーベル圏です。「加群の圏 でできること」の本質を抽出し、圏論的に公理化する——すると、加群でなくても(層・表現・ 複体でも)同じ議論が回るようになります。
段階を踏んで組み立てます。まず「射が足せる」加法圏、次に「核・余核がある」条件を加えてアーベル圏。 最終的に、完全系列(第11章)と導来関手(第12章)が展開できる舞台を用意します。
アーベル圏=「射を足せて(加法)、核と余核が整合的にある」圏。加群の圏を抽象化したホモロジー代数の舞台。
加法圏——射を足す
定義 加法圏
圏 が加法圏とは、
- 各 がアーベル群で、合成が双線形( など)。
- 零対象 (始対象かつ終対象)をもつ。
- 任意の有限個の対象が双積 (積かつ余積が一致)をもつ。
条件 1「射が足せる」が加法圏の心です。(加群と準同型)では、二つの準同型 の和 が また準同型——この当たり前を公理にします。すると「零射」 が意味をもち、 が引けて、 射の“差”を考えられる。ホモロジー(差をとって輪を測る)の準備が整います。条件 3 で積と余積が一致する ( の直和=直積のように)のも加法圏の特徴です。
核と余核——像と商を圏で捉える
加群では、準同型 の核 と余核 を作れました。 これを普遍性(第4・5章)で定義し直します。核は「 で に潰れる部分」への普遍的な射です。
定義 核・余核
加法圏で の
- 核 : をみたす射 のうち普遍的なもの( との合成が になる 射を一意に因子分解する)。等化子( と零射の等化子)=極限の一種。
- 余核 : をみたす のうち普遍的なもの。核の双対=余極限の一種。
核は「 が潰す方向」、余核は「 が届かない残り(商)」を、要素を使わず射の普遍性で捉えます。第5章で 見たとおり、核は極限(等化子)、余核はその双対の余極限。ホモロジー代数の道具立てが、すべて普遍性の言葉に 乗りました。
アーベル圏
核・余核があるだけでは足りません。「像」を核・余核の両方から作れて、それらが一致する——この整合性が アーベル圏の要です。加群でおなじみの準同型定理()が成り立つ舞台、と言っても 同じです。
定義 アーベル圏
加法圏 がアーベル圏とは、さらに
- すべての射が核と余核をもつ。
- すべての単射(モノ射)はある射の核であり、すべての全射(エピ射)はある射の余核である。 (同値に、各 の が同型=準同型定理が成り立つ。)
条件 2 の「像=余像」が肝で、これにより を「全射 と単射 の合成」に一意分解できます。加群の第一同型定理が、圏の公理として据えられた わけです。
例 アーベル圏の例
- (アーベル群)、( 加群):原型。
- 層の圏 :位相空間上のアーベル群の層。表現の圏(群・リー環の表現)。
- 鎖複体の圏 :アーベル圏の複体もアーベル圏(第12章の導来関手の舞台)。
- 非例:(非可換群)はアーベル圏でない(射が足せず、余核が素直でない)。 の 有限次元だけの圏など、核をもたないものも外れる。
注意 なぜ抽象化するのか——フレイド–ミッチェル
「加群でできる議論を抽象圏でやり直す」御利益は絶大。層のコホモロジー、群の表現、代数幾何の連接層——どれも アーベル圏で、同じホモロジー代数(完全系列・導来関手)が一挙に使える。しかもフレイド–ミッチェルの埋め込み 定理が「小さいアーベル圏は、ある環上の加群圏の充満部分圏として埋め込める」と保証する。だから「要素を使う 加群の証明」が、抽象アーベル圏でもそのまま通用する——抽象化しても、加群の直感を捨てなくてよい。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- 加法圏は「射が足せる」圏。 Hom がアーベル群で合成が双線形。 は準同型が足せないので加法圏でない。
- 核・余核は普遍性で定義。 要素 でなく、 との合成が になる射の普遍性。等化子(極限)と その双対。
- アーベル圏の肝は「像=余像」。 単に核・余核があるだけでは足りない。準同型定理が成り立つ整合性が要る。
- 要素を使う証明もフレイド–ミッチェルで正当化される。 抽象アーベル圏でも「元を追う」議論(蛇の補題など)が 使える。抽象と具体の橋。
この章のまとめ
- 加法圏=Hom がアーベル群で合成が双線形(射が足せる)、零対象と双積(積=余積)をもつ。 の抽象化。
- 核・余核を普遍性(等化子とその双対)で定義。アーベル圏は、さらに全射・単射が核・余核と整合し、像=余像(準同型定理)が成り立つ圏。
- 例は ・層・表現・鎖複体。フレイド–ミッチェルにより、要素を追う加群の証明が抽象圏でも通用する。
- 舞台が整った。次章では、この舞台で完全系列と完全関手(左完全・右完全)を定義し、関手が完全性をどう壊すかを見ます。
次章では、完全系列を圏論的に定義し、関手の左完全性・右完全性・半完全性を通じて導来関手(第12章)への動機を作ります。