第7章 複体とホモロジー
ここから分野の後半、ホモロジー代数に入ります。その心は一言——「完全系列がどこで破れるかを測る」。
位相幾何学で、図形の穴を「境界の輪だが何かの縁ではない輪」として数えたのを
覚えているでしょうか。あの発想を、図形から切り離し、純粋に代数的な機械——複体とホモロジー——に
蒸留します。この言語が、可換環論の正則性(第12章)まで貫く共通の道具になります。
鎖複体と ∂²=0
主役は、加群と写像を一列に並べたものです。
定義 鎖複体
R-加群と準同型の列
⋯→Cn+1 ∂n+1 Cn ∂n Cn−1→⋯が鎖複体であるとは、連続する二つの合成がつねに 0:
∂n∘∂n+1=0(すべての n).∂ を境界作用素という。(矢印が逆向き →Cn→Cn+1→ のものは余鎖複体。)
たった一つの条件 ∂2=0。これが何を意味するか、包含関係で読み解きます。∂2=0 は
「∂n+1 の像は、∂n の核に含まれる」——im∂n+1⊂ker∂n と
同値です。ここで二つの部分加群に名前を付けます。
- ker∂n の元=サイクル(Zn):「∂ で 0 になる」=閉じているもの。
- im∂n+1 の元=バウンダリ(Bn):「何かの ∂ で来た」=境界であるもの。
∂2=0 は「境界はすべて閉じている(Bn⊂Zn)」。位相の直感では「縁(バウンダリ)を持つ輪は
必ず閉じている」——当たり前に見えますが、逆は成り立ちません。閉じているのに、どの境界でもないサイクルが
あるかもしれない。そのズレこそ、穴の存在を告げるのです。
ホモロジー:閉じているが境界でないズレ
定義 ホモロジー
鎖複体 C∙ の n 次ホモロジーを、剰余加群
Hn(C∙)=im∂n+1ker∂n=BnZn=境界であるもの閉じているもので定める。Hn=0(すべての n)のとき、複体は完全であるという。
Hn は「閉じているサイクルのうち、境界で説明できないぶんの余り」。位相なら**n 次元の穴の個数**、
代数一般なら「完全性の破れ具合」を測る量です。Hn=0 とは「閉じているものはすべて境界=
im∂n+1=ker∂n」、つまりその箇所で系列がぴったりつながる(完全系列)。
ホモロジーは、完全系列からのズレを加群として取り出す装置なのです。
一言でまとめれば:∂2=0 で「境界 ⊂ サイクル」が保証され、その差 Zn/Bn がホモロジー。
0 なら完全、0 でなければそこに「穴」や「障害」がある。ホモロジー代数のすべては、この一つの商から始まります。
鎖写像とホモロジーの関手性
複体どうしを比べるには、各段の写像が境界作用素と両立していなければなりません。
定義 鎖写像
複体 C∙,D∙ の間の鎖写像 f∙:C∙→D∙ とは、各 n で
準同型 fn:Cn→Dn の族で、∂ と可換なもの:∂nD∘fn=fn−1∘∂nC
(下の四角形がすべて可換)。
可換性のおかげで、鎖写像はサイクルをサイクルに、バウンダリをバウンダリに送ります。だから商に降りて、
ホモロジーの間の写像 Hn(f):Hn(C)→Hn(D) を誘導する。これが Hn の関手性:
Hn(g∘f)=Hn(g)∘Hn(f)、Hn(id)=id。圏論の言葉で、Hn は
「複体の圏 → 加群の圏」の関手です。複体を作り、ホモロジーを取れば、写像も自動で移る——この機械的な移行が、
複雑な代数・幾何の情報を計算可能な加群に落とす原動力になります。
鎖ホモトピー:見かけが違っても同じ写像
二つの鎖写像が「ホモロジー上では区別できない」ことがあります。それを保証するのが、位相の
ホモトピー(連続変形)を代数化した鎖ホモトピーです。
定義 鎖ホモトピー
鎖写像 f∙,g∙:C∙→D∙ が鎖ホモトピックとは、次数を一つ上げる
写像の族 sn:Cn→Dn+1 が存在して
fn−gn=∂n+1D∘sn+sn−1∘∂nCとなること。
定理 ホモトピー不変性
鎖ホモトピックな f,g は、ホモロジー上で同じ写像を誘導する:Hn(f)=Hn(g)。
証明
サイクル z∈Zn(∂z=0)で差を評価すると
fn(z)−gn(z)=∂n+1sn(z)+sn−1=0∂nz=∂n+1(sn(z))。
これはバウンダリ Bn の元。ゆえに Hn では fn(z) と gn(z) は同じ類、Hn(f)=Hn(g)。
∎
証明の効き所は「サイクルでは ∂z=0 で片方の項が消え、残りが境界になる」ところ。境界の差は
ホモロジーで見えない——だから見かけの違う写像が同一視されます。この道具は次章以降で決定的です。
とくに「恒等写像が 0 写像とホモトピックな複体」は、ホモロジーがすべて 0(可縮)——これが
分解の well-defined 性(第9章、導来関手が分解の取り方に依らないこと)を支えます。位相の
「連続変形で不変」という直感が、s という一本の代数的な式に凝縮されているのが見どころです。
注意 つまずきポイント
- ∂2=0 は「境界 ⊂ サイクル」であって「=」ではない。 等号なら完全(穴なし)。ホモロジーは
その差 Z/B を測る。∂2=0 がなければ商 Z/B すら定義できない(B⊂Z が要る)。
- ホモロジーは加群であって数ではない。 位相では階数(ベッチ数)を数えるが、一般には Hn は加群の構造
(ねじれ等)まで持つ。Hn=0 / =0 の別が「完全か否か」。
- 鎖ホモトピー s は鎖写像ではない(次数を上げ、∂ と可換でない)。あくまで二つの鎖写像の差を
境界で埋める「補間」。同型でなくてもホモロジーを一致させられるのが強み。
この章のまとめ
- 鎖複体= ∂2=0 を満たす加群の列。これは「im∂n+1⊂ker∂n
(境界 ⊂ サイクル)」と同値。
- ホモロジー Hn=ker∂n/im∂n+1=「閉じているが境界でないズレ」=
完全系列からの破れ。Hn=0 ⟺ その箇所で完全。Hn は関手(鎖写像が誘導)。
- 鎖ホモトピーは位相の連続変形の代数版で、ホモトピックな写像はホモロジー上一致(ホモトピー不変性)。
分解の一意性を支える鍵。
複体という器と、ズレを測るホモロジーができました。次章は、短完全系列から長完全系列を生む
「蛇の補題」と、任意の加群を complex で近似する分解——導来関手の材料をそろえます。