第8章 蛇の補題と分解
前章でホモロジーという「ズレを測る器」ができました。本章は二つの装置を組み立てます。一つは、短い完全系列を 入れると長い完全系列が出てくる魔法の機械——蛇の補題。もう一つは、扱いにくい加群を、 素直な加群の複体で近似する分解。この二つが、次章の導来関手(Ext・Tor)を作る材料の すべてです。加群論で名前だけ見たこれらを、今度は正面から組み上げます。
蛇の補題
複体の短完全系列——三つの複体が縦に と各段で完全に並ぶ状況——を 考えます。各複体はホモロジーを持つ。問題は「 のホモロジーがどう関係するか」。答えが蛇の補題です。
定理 蛇の補題
-加群の可換図式で、二つの横列がともに完全系列とする:
このとき、核と余核をつなぐ完全系列が存在する:
左端に 、右端に を付ける条件も、両横列の端の完全性から従う。
名前の由来は、 から へ上の行から下の行へS字(蛇)を描いてつなぐ矢印 ——連結準同型にあります。この の構成が補題の心臓で、 「図式追跡(diagram chasing)」という技法の見本です。
証明 (連結準同型 δ の構成)
をとる。 は全射だから、 を持ち上げて ()をとる。 を下の行 で送ると、可換性より の像なので 。完全性から は の像、すなわち一意の で 。この の での 類を と定める。持ち上げ の取り方の任意性は、ちょうど のぶんだけ動くので、 では消えて well-defined。準同型性と完全性の確認も同様の追跡で済む。
「持ち上げて、横に送って、また引き戻す」——このS字の一往復が 。図式追跡は初見では手品のようですが、 やっていることは「全射だから持ち上がる」「核だから像が消える」「完全だから引き戻せる」という完全性の言い換えを 順に使うだけ。慣れると機械的に追えます。蛇の補題は、次の最重要系を生みます。
定理 ホモロジー長完全系列
複体の短完全系列 から、ホモロジーの長完全系列が生じる:
一段ぶんの短い完全系列が、全次数をS字でつなぐ無限の鎖にほどける。この長完全系列こそ、ホモロジー代数の 主力兵器です。「一箇所の情報から、芋づる式に全次数の関係が出る」——第9章の Ext・Tor の計算も、 位相のマイヤー–ヴィートリスも、みなこの機械から出てきます。連結準同型 が 「次数を一つ落として橋を架ける」のが、全体をつなぐ要です。
分解:素直な加群で近似する
ホモロジー代数のもう一つの発想は、「調べたい加群 を、扱いやすい加群の複体で置き換える」ことです。 微積分で関数を多項式(テイラー級数)で近似したように、加群を「良い加群」の列で近似する。何を「良い」と するかで、二種類の分解が生まれます。
射影分解は「 を自由加群(や射影加群)の関係で書き下す」こと。まず生成元を並べて全射 、 その核(関係式=シジジー)をまた自由加群 で覆い、さらにその関係の関係を で…と 続けます。存在は易しい:どんな加群も自由加群の商だから、この手続きはいつでも始められ、繰り返せる。
例で握りましょう。、 の射影(自由)分解は、たった二項で終わります:
「 は、 を生成元一つ・関係式 一つで表したもの」。この短さ(長さ )が、後で 「 の大域次元は 」に効いてきます。多項式環 上でも同様に短い分解が作れます。
決定的なのは、分解が本質的に一意なことです。
定理 分解の一意性(比較定理)
の二つの射影分解は、 上の恒等写像を延長する鎖写像で結ばれ、その鎖写像は鎖ホモトピーの違いを除いて一意。 特に二つの射影分解は互いに鎖ホモトピー同値。
証明は、射影加群の定義(全射を通した写像の持ち上げができる)で、一段ずつ写像を構成し、前章の 鎖ホモトピーで一意性を吸収する——まさに第7章のホモトピー不変性の出番です。この一意性が 次章で効きます:「分解に何か関手を施してホモロジーを取る」とき、どの分解を選んでも結果が同じ。 だからこそ導来関手(Ext・Tor)が だけで決まる不変量として well-defined になるのです。
注意 つまずきポイント
- 蛇の補題の は「S字に一往復」して作る。 持ち上げ→横に送る→引き戻す。各ステップの正当性は 完全性そのもの。図式追跡は魔法ではなく、完全性の逐次適用。
- 長完全系列は次数を一つ落とす で全次数がつながる。 短完全系列一つが無限の鎖に化ける—— 一点の情報から芋づる式に、がホモロジー代数の常套。
- 分解は一意でないが、鎖ホモトピー同値の意味で一意。 個々の の選び方は自由でも、ホモロジーを 取った後の結果は不変。この「見かけは違うが本質同じ」を保証するのが鎖ホモトピー。
この章のまとめ
- 蛇の補題:二行の完全図式から、核と余核をS字でつなぐ完全系列が出る。心臓は連結準同型 (持ち上げ→送る→引き戻す図式追跡)。これが複体の短完全系列をホモロジー長完全系列にほどく。
- 分解:加群 を射影加群(左から)/入射加群(右から)の complex で近似する。存在は易しく、 は と長さ 。
- 分解は鎖ホモトピー同値の意味で一意(比較定理)。この一意性が、次章の導来関手が分解に依らないことを保証する。
材料はそろいました。次章、いよいよ「関手を分解に施してホモロジーを取る」という導来関手の一般機械を回し、 Ext と Tor を——分解の取り方に依らない不変量として——構成します。