第3章 ドルボー作用素と (p,q) 形式
前章で、複素多様体の接空間は正則方向 T1,0 と反正則方向 T0,1 に分かれました。この分解を微分形式に
持ち上げると、多様体論の微分形式が (p,q) 型に細かく分類されます。すると外微分 d が
∂ と ∂ˉ という二つの作用素に分裂する。この ∂ˉ(ドルボー作用素)こそが複素幾何の
主役です。「正則である」という条件が、∂ˉf=0 というただ一本の方程式に凝縮され、複素解析の
コーシー–リーマン方程式が幾何の言葉に翻訳されます。
(p,q) 形式:形式を正則・反正則で分ける
微分形式は、余接空間 dzj(正則)と dzˉj(反正則)の外積で書けます。正則な微分をいくつ、反正則な
微分をいくつ含むかで、形式を分類します。
定義 (p,q) 形式
複素多様体上の微分形式が(p,q) 形式とは、局所座標で
α=∑∣I∣=p,∣J∣=qfIJdzi1∧⋯∧dzip∧dzˉj1∧⋯∧dzˉjq
と、正則な dz を p 個・反正則な dzˉ を q 個含む形に書けること。(p,q) 形式の全体を
Ap,q と書く。全次数 k の複素微分形式は (p,q) 型に分解する:
Ak=⨁p+q=kAp,q.
実の多様体では、微分形式は次数 k だけで分類されました。複素構造が入ると、同じ k 次形式が
「正則をいくつ・反正則をいくつ含むか」で (p,q) に細分される。k=1 の形式は (1,0)(dz)と (0,1)(dzˉ)に、
k=2 の形式は (2,0),(1,1),(0,2) に分かれる。この細分が、複素幾何のあらゆる構造の出発点です。
d が ∂ と ∂̄ に分裂する
外微分 d を (p,q) 形式に施すと、dz か dzˉ が一つ増えるので、(p+1,q) 型と (p,q+1) 型の成分が
出ます。この二つを別々の作用素として取り出します。
定義 ドルボー作用素 ∂ と ∂̄
(p,q) 形式に対し、外微分を型で分解する:
d=∂+∂ˉ,∂:Ap,q→Ap+1,q,∂ˉ:Ap,q→Ap,q+1.
∂ˉ をドルボー作用素という。関数 f に対しては
∂f=∑∂zj∂fdzj、∂ˉf=∑∂zˉj∂fdzˉj。
d=∂+∂ˉ という分裂は、複素多様体(J が可積分)だからこそ起こります——概複素多様体でも
J が可積分でないと d に (p+2,q−1) 型などの余計な成分が出て、この綺麗な分裂が崩れます(前章の可積分性が
効く)。d2=0 を型ごとに分けると、次の基本関係が出ます。
命題 ∂̄²=0
d2=0 を (p,q) 型に分解すると
∂2=0,∂ˉ2=0,∂∂ˉ+∂ˉ∂=0.
とくに ∂ˉ2=0——ドルボー作用素は d と同じく「二回で消える」複体を作る。
∂ˉ2=0 が決定的です。多様体論で d2=0 がド・ラームコホモロジーを生んだのと
まったく同じ仕組みで、∂ˉ2=0 が次章のドルボーコホモロジーを生みます。複素幾何は、この
∂ˉ-複体の上に築かれます。
正則性 = ∂̄f = 0
ドルボー作用素の意味を、関数で確かめます。∂ˉf=∑∂zˉj∂fdzˉj が
0 になる条件は、すべての反正則微分が消えること。これはまさに正則性の定義です。
定理 正則関数はドルボー作用素の核
複素多様体上の関数 f が正則(各座標で複素微分可能)⇔ ∂ˉf=0。
すなわち ∂zˉj∂f=0(すべての j)。これは複素解析の
コーシー–リーマン方程式そのもの。
複素解析で二本の実の方程式(ux=vy, uy=−vx)だったコーシー–リーマンが、複素幾何では
∂ˉf=0 という一本の方程式に凝縮されました。「正則 = 反正則方向に定数 = ∂ˉ で消える」。
∂ˉ は「どれだけ非正則か」を測る作用素で、その核が正則な対象を捉えます。同様に、(p,0) 形式で
∂ˉ に消されるものが正則 p 形式——係数が正則関数の dzi1∧⋯∧dzip——で、
前章で予告した「関数の代わりに使う正則な対象」の正体です。
注意 なぜ ∂̄ が主役で ∂ でないのか
∂ と ∂ˉ は対称に見えるが、「正則」を捉えるのは ∂ˉ。正則関数・正則形式・正則直線束の
切断は、すべて「∂ˉ で消える」もの。∂ˉ-方程式 ∂ˉu=α の可解性
(∂ˉ-コホモロジーの消滅)が、正則な対象を構成する鍵になる(第4章・第11章)。複素幾何の解析は
∂ˉ をめぐって展開する。
注意 つまずきポイント
- (p,q) の p,q は dz・dzˉ の個数。p+q=k(全次数)。実の k 次形式が複素構造で (p,q) に細分。
- d=∂+∂ˉ は複素多様体でこそ。J が可積分なとき d が二つに綺麗に割れる。可積分性
(前章)が効いている。
- 正則 = ∂ˉ の核。反正則微分 ∂/∂zˉ がゼロ。コーシー–リーマンの幾何版。
∂ でなく ∂ˉ が正則性を担うことを取り違えない。
この章のまとめ
- 微分形式は複素構造で (p,q) 型(dz を p 個・dzˉ を q 個)に細分:Ak=⨁p+q=kAp,q。
- 外微分が分裂 d=∂+∂ˉ(∂ は (p+1,q)、∂ˉ は (p,q+1) 型を上げる)。
d2=0 から ∂2=∂ˉ2=0、∂∂ˉ+∂ˉ∂=0。
- ∂ˉ2=0 が次章のドルボーコホモロジーを生む(d2=0 とド・ラームの複素版)。
- 正則 ⟺ ∂ˉf=0(コーシー–リーマンの一本化)。∂ˉ が「非正則さ」を測り、その核が正則な
対象(正則関数・正則 p 形式)を捉える。∂ˉ が複素幾何の解析の主役。
次章は、∂ˉ2=0 からドルボーコホモロジー H∂ˉp,q を定義し、それが正則な対象
(層コホモロジー)と一致すること(ドルボーの定理)を見ます。複素多様体の不変量が姿を現します。