数学の作り方 How to make Mathematics

第5章 エルミート計量とケーラー形式

ここまでは複素構造(JJˉ\bar\partial)だけを扱いました。ここから計量を導入します。リーマン幾何で 長さや角度を測ったように、複素多様体にも計量を入れたい。ただし正則構造と喧嘩しないよう、複素構造 JJ と調和する エルミート計量を選びます。すると計量から自然に (1,1)(1,1) 形式ケーラー形式 ω\omega が現れ、それが閉じている (dω=0d\omega=0)というケーラー条件が、次章以降の奇跡(ホッジ理論)の鍵になります。計量・複素構造・微分形式が 一つに絡み合う舞台を用意します。

エルミート計量:Jと調和する内積

複素多様体の各接空間には、複素構造 JJ90°90° 回転)が入っています。計量を入れるとき、この JJ を尊重した ——JJ が回転(等長)になるような——内積を選びます。

定義 エルミート計量

複素多様体 XX の各接空間のリーマン計量 ggエルミート計量とは、JJ と両立すること: g(JX,JY)=g(X,Y)(J が等長).g(JX,JY)=g(X,Y)\qquad(\text{$J$ が等長}). このとき gg から反対称な 22 形式 ω(X,Y)=g(JX,Y)\omega(X,Y)=g(JX,Y) が定まる。ω\omega基本形式(ケーラー形式の候補)といい、これは (1,1)(1,1) 形式である。

JJ が計量を保つ」——90°90° 回転しても長さが変わらない、という自然な要求です。Cn\mathbb C^n の標準計量は エルミートで、そこから作られる基本形式は ω=i2dzjdzˉj\omega=\frac{i}{2}\sum dz_j\wedge d\bar z_j。エルミート計量では、 計量 gg(対称)と基本形式 ω\omega(反対称)と複素構造 JJ の三つが、ω(X,Y)=g(JX,Y)\omega(X,Y)=g(JX,Y) という関係で 三位一体になります。どれか一つを決めれば、JJ を介して他が決まる。この三者の絡み合いが複素幾何の計量論の 特徴です。

ケーラー条件:ω が閉じている

エルミート計量はいつでも入ります(11 の分割で貼り合わせればよい)。ですが本当に良い性質が出るのは、基本形式 ω\omega閉形式であるとき——ここに条件を課します。

定義 ケーラー計量・ケーラー多様体

エルミート計量の基本形式 ω\omega が閉じている(ケーラー条件dω=0d\omega=0 とき、ggケーラー計量ω\omegaケーラー形式(X,ω)(X,\omega)ケーラー多様体という。

dω=0d\omega=0 は一見ささやかな微分方程式です。でもこれが絶大な効果を生みます。ω\omega が閉じた (1,1)(1,1) 形式 なので、ド・ラームコホモロジーの類 [ω]H2(X,R)[\omega]\in H^2(X,\mathbb R) を定める——ケーラー類。 コンパクトケーラー多様体では [ω]0[\omega]\neq0ωn\omega^n が体積形式で Xωn>0\int_X\omega^n>0 だから、ω\omega は 完全でない)。そして次章以降で見るように、dω=0d\omega=0 は「計量が複素構造と“二階のオーダーまで”標準的に 一致する」ことを意味し、それがホッジ理論の三つのラプラシアンを一致させる(第8章)源になります。

なぜ d ω = 0 が効くのか——気持ち

ケーラー条件の深さを、直感的に述べておきます。dω=0d\omega=0 は、複素構造 JJ が計量に対して 平行(レヴィ–チヴィタ接続で不変、J=0\nabla J=0)であることと同値です。

命題 ケーラー条件の言い換え

コンパクト複素多様体のエルミート計量について、次は同値:

  1. dω=0d\omega=0(ケーラー条件)。
  2. 複素構造 JJ がレヴィ–チヴィタ接続で平行:J=0\nabla J=0
  3. 各点のまわりに、計量が標準計量に二階のオーダーまで一致する正則座標がある。

(2)(2) が心臓です。リーマン幾何のレヴィ–チヴィタ接続で「JJ を平行移動しても JJ の まま」——複素構造と計量が、微分のレベルで完全に噛み合っている。(3)(3) はその局所的な現れで、ケーラー多様体は 「各点で Cn\mathbb C^n の標準計量に二次近似で一致」する。だから複素解析(正則)と微分幾何(計量)の道具が同時に 使え、両者の情報がホッジ理論で融合する。dω=0d\omega=0 という一本の式が、この深い両立性を凝縮しているのです。

注意 ケーラーでないエルミート多様体

すべての複素多様体はエルミート計量を持つが、ケーラー計量を持つとは限らない。ホップ多様体 (Cn{0}\mathbb C^n\setminus\{0\} をスケール変換で割った複素多様体)はケーラーでない典型で、b1b_1 が奇数になり (次章以降のケーラー制約に反する)ケーラー計量を持てない。ケーラーは「入れば非常に良いが、入るとは限らない」 特別な条件。次章で、豊富なケーラー多様体の例(射影空間・射影多様体)を見る。

注意 つまずきポイント

  • エルミート計量はいつでも・ケーラー計量は特別JJ と両立する計量(エルミート)は 11 の分割で必ず作れる。 だがその基本形式が閉じる(ケーラー)かは別問題。
  • ω\omega(1,1)(1,1) 形式で実形式ω=g(J,)\omega=g(J\cdot,\cdot) は反対称な実 22 形式かつ (1,1)(1,1) 型。 計量・複素構造・形式の三位一体。
  • dω=0d\omega=0J=0\nabla J=0 が本質。ケーラー条件は「複素構造が計量と微分レベルで両立」。この両立が ホッジ理論(第8章)を可能にする。単なる技術的条件でなく深い意味を持つ。

この章のまとめ

  • エルミート計量=複素構造 JJ と両立する(JJ が等長な)リーマン計量。そこから基本形式 ω(X,Y)=g(JX,Y)\omega(X,Y)=g(JX,Y)(実 (1,1)(1,1) 形式)が定まる。計量・JJω\omega は三位一体。
  • ケーラー条件 dω=0d\omega=0:基本形式が閉形式。ω\omega はケーラー類 [ω]H2[\omega]\in H^2 を定め、コンパクトなら 非自明(ωn>0\int\omega^n>0)。
  • ケーラー条件は J=0\nabla J=0(複素構造が接続で平行)と同値。「計量が各点で標準計量に二階まで一致」を意味し、 複素解析と微分幾何の道具が同時に使える源。
  • エルミートはいつでも、ケーラーは特別(ホップ多様体は非ケーラー)。次章で豊富なケーラー例を見る。

次章は、ケーラー多様体の具体例と「なぜ特別か」を掘り下げます。とくに CPn\mathbb{CP}^n のフビニ–スタディ計量が 自然なケーラー計量を与え、その部分多様体(射影代数多様体)がすべてケーラーになることを見ます。