第5章 エルミート計量とケーラー形式
ここまでは複素構造(・)だけを扱いました。ここから計量を導入します。リーマン幾何で 長さや角度を測ったように、複素多様体にも計量を入れたい。ただし正則構造と喧嘩しないよう、複素構造 と調和する エルミート計量を選びます。すると計量から自然に 形式ケーラー形式 が現れ、それが閉じている ()というケーラー条件が、次章以降の奇跡(ホッジ理論)の鍵になります。計量・複素構造・微分形式が 一つに絡み合う舞台を用意します。
エルミート計量:Jと調和する内積
複素多様体の各接空間には、複素構造 ( 回転)が入っています。計量を入れるとき、この を尊重した —— が回転(等長)になるような——内積を選びます。
定義 エルミート計量
複素多様体 の各接空間のリーマン計量 がエルミート計量とは、 と両立すること: このとき から反対称な 形式 が定まる。 を基本形式(ケーラー形式の候補)といい、これは 形式である。
「 が計量を保つ」—— 回転しても長さが変わらない、という自然な要求です。 の標準計量は エルミートで、そこから作られる基本形式は 。エルミート計量では、 計量 (対称)と基本形式 (反対称)と複素構造 の三つが、 という関係で 三位一体になります。どれか一つを決めれば、 を介して他が決まる。この三者の絡み合いが複素幾何の計量論の 特徴です。
ケーラー条件:ω が閉じている
エルミート計量はいつでも入ります( の分割で貼り合わせればよい)。ですが本当に良い性質が出るのは、基本形式 が閉形式であるとき——ここに条件を課します。
定義 ケーラー計量・ケーラー多様体
エルミート計量の基本形式 が閉じている(ケーラー条件) とき、 をケーラー計量、 をケーラー形式、 を ケーラー多様体という。
は一見ささやかな微分方程式です。でもこれが絶大な効果を生みます。 が閉じた 形式 なので、ド・ラームコホモロジーの類 を定める——ケーラー類。 コンパクトケーラー多様体では ( が体積形式で だから、 は 完全でない)。そして次章以降で見るように、 は「計量が複素構造と“二階のオーダーまで”標準的に 一致する」ことを意味し、それがホッジ理論の三つのラプラシアンを一致させる(第8章)源になります。
なぜ d ω = 0 が効くのか——気持ち
ケーラー条件の深さを、直感的に述べておきます。 は、複素構造 が計量に対して 平行(レヴィ–チヴィタ接続で不変、)であることと同値です。
命題 ケーラー条件の言い換え
コンパクト複素多様体のエルミート計量について、次は同値:
- (ケーラー条件)。
- 複素構造 がレヴィ–チヴィタ接続で平行:。
- 各点のまわりに、計量が標準計量に二階のオーダーまで一致する正則座標がある。
が心臓です。リーマン幾何のレヴィ–チヴィタ接続で「 を平行移動しても の まま」——複素構造と計量が、微分のレベルで完全に噛み合っている。 はその局所的な現れで、ケーラー多様体は 「各点で の標準計量に二次近似で一致」する。だから複素解析(正則)と微分幾何(計量)の道具が同時に 使え、両者の情報がホッジ理論で融合する。 という一本の式が、この深い両立性を凝縮しているのです。
注意 ケーラーでないエルミート多様体
すべての複素多様体はエルミート計量を持つが、ケーラー計量を持つとは限らない。ホップ多様体 ( をスケール変換で割った複素多様体)はケーラーでない典型で、 が奇数になり (次章以降のケーラー制約に反する)ケーラー計量を持てない。ケーラーは「入れば非常に良いが、入るとは限らない」 特別な条件。次章で、豊富なケーラー多様体の例(射影空間・射影多様体)を見る。
注意 つまずきポイント
- エルミート計量はいつでも・ケーラー計量は特別。 と両立する計量(エルミート)は の分割で必ず作れる。 だがその基本形式が閉じる(ケーラー)かは別問題。
- は 形式で実形式。 は反対称な実 形式かつ 型。 計量・複素構造・形式の三位一体。
- ⟺ が本質。ケーラー条件は「複素構造が計量と微分レベルで両立」。この両立が ホッジ理論(第8章)を可能にする。単なる技術的条件でなく深い意味を持つ。
この章のまとめ
- エルミート計量=複素構造 と両立する( が等長な)リーマン計量。そこから基本形式 (実 形式)が定まる。計量・・ は三位一体。
- ケーラー条件 :基本形式が閉形式。 はケーラー類 を定め、コンパクトなら 非自明()。
- ケーラー条件は (複素構造が接続で平行)と同値。「計量が各点で標準計量に二階まで一致」を意味し、 複素解析と微分幾何の道具が同時に使える源。
- エルミートはいつでも、ケーラーは特別(ホップ多様体は非ケーラー)。次章で豊富なケーラー例を見る。
次章は、ケーラー多様体の具体例と「なぜ特別か」を掘り下げます。とくに のフビニ–スタディ計量が 自然なケーラー計量を与え、その部分多様体(射影代数多様体)がすべてケーラーになることを見ます。