数学の作り方 How to make Mathematics

第6章 ケーラー多様体

前章でケーラー条件 dω=0d\omega=0 の深さを見ました。「特別だが、入るとは限らない」条件です。ではケーラー多様体は 珍しいのか——実は、数学で扱う複素多様体の圧倒的多数がケーラーです。その理由は、最重要のモデル空間 複素射影空間 CPn\mathbb{CP}^n が自然なケーラー計量(フビニ–スタディ計量)を持ち、しかもその部分多様体が すべてケーラーになるから。射影空間の中に住む代数多様体は、全部ケーラー多様体。この章で、ケーラー幾何が 代数幾何を丸ごと呑み込む様子を見ます。

ケーラーポテンシャル:一つの関数から計量が出る

ケーラー計量は、局所的にはたった一つの実関数から生成されます。これがケーラー幾何の著しい特徴です。

定理 ケーラーポテンシャル

ケーラー多様体では、各点の近傍に実数値関数 φ\varphiケーラーポテンシャル)があって ω=iˉφ.\omega=i\,\partial\bar\partial\,\varphi. 逆に、φ\varphi多重劣調和iˉφ>0i\partial\bar\partial\varphi>0)なら、これは局所的にケーラー計量を定める。

普通のリーマン計量は gijg_{ij} という n(2n+1)n(2n+1) 個くらいの成分を持つ複雑なデータでした。ところがケーラー計量は、 局所的に一個のスカラー関数 φ\varphi に凝縮される。ω=iˉφ\omega=i\partial\bar\partial\varphi を展開すると gjkˉ=2φzjzˉkg_{j\bar k}=\frac{\partial^2\varphi}{\partial z_j\partial\bar z_k}——計量が一つのポテンシャルの二階微分(複素ヘッセ 行列)で書ける。dω=0d\omega=0(ケーラー条件)が、この「一関数からの生成」を可能にしています (d(iˉφ)=0d(i\partial\bar\partial\varphi)=02=ˉ2=0\partial^2=\bar\partial^2=0 から自動)。計量論が関数論に落ちるのが、 ケーラー幾何の計算のしやすさの源です。

フビニ–スタディ計量:ℂℙⁿ の自然なケーラー計量

最重要の例、複素射影空間 CPn\mathbb{CP}^n に、標準的なケーラー計量を入れます。

定義 フビニ–スタディ計量

CPn\mathbb{CP}^n 上、斉次座標 [z0::zn][z_0:\cdots:z_n] のアフィンチャートで、ケーラーポテンシャル φ=log(1+w12++wn2)(wj=zj/z0)\varphi=\log\big(1+|w_1|^2+\cdots+|w_n|^2\big)\qquad(w_j=z_j/z_0) から定まる ωFS=iˉφ\omega_{FS}=i\partial\bar\partial\varphiフビニ–スタディ計量という。CPn\mathbb{CP}^n の 対称性(ユニタリ群 U(n+1)U(n+1) の作用)で不変な、標準的なケーラー計量。

CP1\mathbb{CP}^1(リーマン球面)でこの計量を計算すると、ちょうど球面の丸い計量(の定数倍)になります。 CPn\mathbb{CP}^n は、この計量で「一様に曲がった」コンパクトケーラー多様体。U(n+1)U(n+1) 対称性のおかげで、どの点も 同等に見える等質空間です。フビニ–スタディ計量は、複素幾何のあらゆる計算のベンチマークになります。

核心:射影多様体はすべてケーラー

フビニ–スタディ計量の最大のご利益は、部分多様体への遺伝です。

定理 部分多様体はケーラー

ケーラー多様体 (X,ω)(X,\omega) の複素部分多様体 YXY\subseteq X は、ω\omega の制限 ωY\omega|_Y で再びケーラー多様体に なる。とくに CPn\mathbb{CP}^n の複素部分多様体——射影代数多様体(斉次多項式の共通零点、代数幾何)——は すべてケーラー多様体である。

証明

ωY\omega|_YYY 上のエルミート計量の基本形式(XX の計量を YY に制限したもの)。d(ωY)=(dω)Y=0d(\omega|_Y)=(d\omega)|_Y=0 ——ケーラー条件が制限で保たれる(外微分は制限と可換)。ゆえに ωY\omega|_Y はケーラー。Y=CPnY=\mathbb{CP}^n の 部分多様体なら、フビニ–スタディ計量の制限で YY はケーラー。

これが決定的です。CPn\mathbb{CP}^n の中で斉次多項式 f1==fr=0f_1=\cdots=f_r=0 の零点として定義される図形 ——楕円曲線、代数曲面、カラビ–ヤウ多様体など、代数幾何が扱う射影多様体のすべて——が、 自動的にケーラー多様体になる。だから代数幾何の対象は、まるごと複素幾何(ケーラー幾何)の道具で調べられます。 第4章のドルボーの定理(解析=正則層)と合わせ、複素幾何は微分幾何・複素解析・代数幾何の三つが交わる場所 なのです。逆に、コンパクトケーラー多様体が射影多様体になるための条件(=どんな複素多様体が代数的か)を問うのが、 第11章の小平の埋め込み定理です。

注意 ケーラーの豊富さと稀少さ

  • 豊富さ:射影多様体(代数幾何の全対象)+その積・部分多様体がすべてケーラー。数学で出会う複素多様体の 大半をカバー。
  • 稀少さ:それでも「すべての複素多様体がケーラー」ではない。ホップ多様体(前章)や一般の複素トーラスの 非代数的なもの(アーベル多様体でない複素トーラス)は非ケーラー/非射影。 「ケーラー ⊋ 射影」で、ケーラーは射影より少し広い(コンパクトケーラーで射影でない例=非代数的トーラス)。

注意 つまずきポイント

  • ケーラー計量は一関数 φ\varphi から。局所的に ω=iˉφ\omega=i\partial\bar\partial\varphi。リーマン計量の 複雑さがスカラー一つに凝縮。計算が劇的に楽になる。
  • 部分多様体への遺伝が鍵dω=0d\omega=0 が制限で保たれる(外微分と制限が可換)から、CPn\mathbb{CP}^n の 部分多様体は全部ケーラー。これで代数幾何の全対象がケーラーに。
  • ケーラー ⊋ 射影 ⊋ アフィン。射影多様体はケーラーだが、コンパクトケーラーで非射影の例もある (小平埋め込み、第11章が両者の橋)。混同しない。

この章のまとめ

  • ケーラー計量は局所的に一つのケーラーポテンシャル φ\varphi から ω=iˉφ\omega=i\partial\bar\partial\varphi で 生成される(計量 = φ\varphi の複素ヘッセ行列)。計量論が関数論に落ちる。
  • フビニ–スタディ計量CPn\mathbb{CP}^nU(n+1)U(n+1) 不変な標準ケーラー計量(φ=log(1+w2)\varphi=\log(1+|w|^2))。 CP1\mathbb{CP}^1 では球面計量。
  • 部分多様体はケーラーdω=0d\omega=0 が制限で保たれる)。ゆえに CPn\mathbb{CP}^n の射影代数多様体は すべてケーラー——代数幾何の全対象が複素幾何の道具で扱える。
  • ケーラーは豊富(射影多様体を全部含む)だが「すべての複素多様体」ではない(非ケーラー多様体もある)。

計量が入り、豊富なケーラー多様体が手に入りました。次章から、いよいよホッジ理論へ。計量から作る ラプラシアンと調和形式が、コホモロジーの“最良の代表”を与えることを見ます。