第8章 ケーラー恒等式とホッジ分解
前章で、コンパクトリーマン多様体の各コホモロジー類に調和形式がちょうど一つ対応しました。ですがそこまでは
複素構造を使っていません。この章で、ケーラー条件 dω=0 が起こす奇跡を見ます。d から作る
ラプラシアン Δ と、∂ˉ から作るラプラシアン Δ∂ˉ が、ケーラーのもとで
Δ=2Δ∂ˉ と一致する。その帰結として、k 次コホモロジーが (p,q) 型に分裂する
——ホッジ分解 Hk=⨁p+q=kHp,q。位相的な穴が、複素解析的な情報にぴたりと分解される、
複素幾何の頂点です。
三つのラプラシアン
計量が入ると、d だけでなく ∂,∂ˉ からもラプラシアンが作れます。それぞれの随伴
∂∗,∂ˉ∗ を使って三つ組みます。
定義 三つのラプラシアン
Δd=dd∗+d∗d,Δ∂=∂∂∗+∂∗∂,Δ∂ˉ=∂ˉ∂ˉ∗+∂ˉ∗∂ˉ.
一般のエルミート多様体では、この三つは互いに異なる。Δ∂ˉ の核(∂ˉ-調和形式)が
ドルボーコホモロジー H∂ˉp,q の代表を、Δd の核(調和形式)がド・ラームコホモロジー
HdRk の代表を与える。
Δd は実のコホモロジー(穴、ベッチ数)を、Δ∂ˉ は複素のコホモロジー(ホッジ数)を
測ります。一般の複素多様体では両者に関係はなく、ド・ラームとドルボーは無関係な不変量でした(第4章)。ところが
ケーラー条件を課すと——。
ケーラーの奇跡:三つが一致する
定理 ケーラー恒等式
コンパクトケーラー多様体では、三つのラプラシアンが一致する(定数倍を除いて):
Δd=2Δ∂=2Δ∂ˉ.
証明
(骨子)ケーラー条件 dω=0 から、ケーラー形式との縮約 Λ(ω∧ の随伴)と ∂,∂ˉ の
間にケーラー恒等式 [Λ,∂ˉ]=−i∂∗、[Λ,∂]=i∂ˉ∗ が成り立つ。
これらを Δd=(∂+∂ˉ)(∂∗+∂ˉ∗)+⋯ に代入して展開すると、交差項が
ω の平行性(∇ω=0、第5章)で消え、Δd=2Δ∂ˉ に整理される。
dω=0 が交差項を殺すのが要。
∎
これがケーラー幾何の核心的な恒等式です。dω=0 という一本の条件が、d(実)と ∂ˉ(複素)の
二つの解析を同じラプラシアンに統一する。前章で「dω=0⇔∇J=0(複素構造が計量と
両立)」と見ましたが、その両立性がここで解析のレベルに効いて、実と複素の調和形式を一致させるのです。この一致
から、決定的な帰結が転がり出ます。
ホッジ分解:位相が (p,q) に分裂する
Δd=2Δ∂ˉ が意味するのは、「d-調和形式と ∂ˉ-調和形式が同じもの」という
こと。Δ∂ˉ は (p,q) 型を保つ(∂ˉ が型を一つずつ動かすので)ので、d-調和形式も
(p,q) 成分に分解でき、その分解がそのままコホモロジーの分解になります。
定理 ホッジ分解
コンパクトケーラー多様体 X で、k 次コホモロジーは (p,q) 型に直和分解する:
Hk(X,C)=⨁p+q=kHp,q(X),Hp,q=H∂ˉp,q(X),Hp,q=Hq,p.
したがってベッチ数はホッジ数の和 bk=∑p+q=khp,q、そして複素共役対称 hp,q=hq,p。
この定理の破壊力を味わってください。k 次コホモロジー——純粋に位相的な穴——が、複素構造を使って
Hp,q(複素解析的な情報)にぴたりと分解される。第4章では無関係だったド・ラーム(bk)とドルボー
(hp,q)が、ケーラーのもとで bk=∑hp,q と結ばれる。しかも複素共役 Hp,q=Hq,p から
対称性 hp,q=hq,p が出る。位相と複素解析の、これ以上ない深い一致です。
すぐ出る帰結を装置で確かめましょう。k が奇数のとき、bk=∑p+q=khp,q の項が対称性 hp,q=hq,p
でペアを組む(p=q しかない)ので、bk は偶数。これは「ケーラーでない複素多様体」を排除する強力な
判定条件です(ホップ多様体は b1=1 でケーラーになれない、第5章)。
装置で「対称性を強調」を押すと、二つの対称——複素共役 hp,q=hq,p(左右)とセール双対
hp,q=hn−p,n−q(上下)——が見えます。各段の和がベッチ数(右列)、奇数段が偶数になっていることも確認
してください。ホッジ・ダイヤモンドは、コンパクトケーラー多様体の全コホモロジー情報を一枚に凝縮した“設計図”です。
注意 つまずきポイント
- 奇跡はケーラーでこそ。Δd=2Δ∂ˉ はケーラー条件 dω=0 に依存。一般の複素多様体
では三つのラプラシアンは異なり、ホッジ分解は成り立たない。
- Hp,q は複素係数。ホッジ分解は Hk(X,C)(複素係数コホモロジー)の分解。実係数のままでは
(p,q) に分けられない。
- bodd 偶数はケーラーの必要条件。破れていれば非ケーラー。ただし十分条件ではない
(満たしても非ケーラーな複素多様体はある)。判定の一方向。
この章のまとめ
- 計量から三つのラプラシアン Δd,Δ∂,Δ∂ˉ が作れ、一般には異なる。
- ケーラー恒等式:コンパクトケーラーで Δd=2Δ∂ˉ(dω=0 が交差項を殺す)。実の
調和形式と ∂ˉ-調和形式が一致。
- ホッジ分解 Hk(X,C)=⨁p+q=kHp,q:位相的な穴が (p,q) 型に分裂。
bk=∑hp,q、複素共役対称 hp,q=hq,p、ゆえに bodd は偶数(非ケーラー判定)。
- ホッジ数を菱形に並べたホッジ・ダイヤモンドが、コンパクトケーラー多様体の全コホモロジー情報を凝縮。
次章は、このホッジ分解から流れ出る帰結を掘り下げます。ホッジ・ダイヤモンドのもう一つの対称(セール双対)、
ベッチ数への制約、そしてハード・レフシェッツの定理——ケーラー類 ω が生む隠れた対称性を見ます。