第10章 モース不等式
前章で「モース関数の臨界点 個 ↔ CW 複体のセル 個」となり、多様体がセルで組み立てられました。 セルからはホモロジーが計算できます。ここで自然な問いが生まれます——臨界点は、 最低何個必要か? 答えがモース不等式:指数 の臨界点の個数は、 次のベッチ数 ( 次元の穴の数)以上でなければならない。「穴があるなら、それを作るための臨界点が要る」という、 位相が微分に課す下限です。
セルからホモロジーへ
前章の CW 構造を使います。指数 の臨界点の個数を とすると、 は各次元 に 個のセルを持つ CW 複体。位相幾何の胞体ホモロジーでは、 次の鎖群は (セルが基底)で、 境界写像 のホモロジー が 多様体のホモロジーを与えます。ベッチ数 ( 次元の独立な穴の数)です。
要点は線形代数です。 から出発してホモロジーを取ると、次元は必ず落ちる方向にしか動きません (部分空間の商だから)。この単純な事実が、臨界点の個数 とベッチ数 の間に不等式を強制します。
弱モース不等式
定理 弱モース不等式
コンパクト多様体 上のモース関数について、指数 の臨界点の個数 とベッチ数 は
証明
は の部分商。部分加群の商の階数は 元の階数以下だから 。
「 次元の穴が 個あるなら、指数 の臨界点は少なくとも 個要る」。トーラス()を どんなモース関数で調べても、谷 ・峠 ・山 、合計 個の臨界点が必要——前章の実演の トーラスがちょうど 個だったのは、この下限を達成する最小のモース関数だったからです。位相(穴の数)が、 微分(臨界点の数)に絶対の下限を課しています。
強モース不等式とオイラー標数
弱不等式は各次元を独立に見ました。実は境界写像 が次元をまたいで臨界点を相殺しうるので、 交代和を使うともっと強い不等式が成り立ちます。
定理 強モース不等式
各 について、交代部分和が
強不等式は「臨界点の一部は、隣り合う指数どうしで対になって相殺しうる(境界写像でつながる余分な臨界点は、 上下の指数で対消滅する)」ことを反映します。第4–5章の「対で生滅する点」の主題が、ここでも顔を出します。 そして全次元の交代和を取ると、不等式が等式に化けます。
定理 モースのオイラー標数公式
すなわち、臨界点を符号 込みで数えた総和は、ベクトル場に依らずオイラー標数に等しい。
証明
交代和 は、境界写像 のホモロジーを取っても不変 (各 の像と核の階数が上下の次元で打ち消す、線形代数の基本補題)。ゆえに 。
これは前章の実演で見た の正体であり、第7章のポアンカレ–ホップの証明で 「勾配場の指数総和 」と使った等式そのものです。三つの章——ベクトル場の零点 (ポアンカレ–ホップ)、劣位集合の実演、臨界点の勘定(モース)——が、 という 一本の等式で束ねられます。局所的な臨界点の符号付き勘定が、大域的なオイラー標数を復元する。
完全モース関数と応用
弱不等式の等号 がすべての で成り立つモース関数を完全(perfect)と呼びます。 臨界点に無駄が一切なく、境界写像がすべて の理想的な関数です。
注意 完全モース関数と、その使いどころ
複素射影空間 には、臨界点が各偶数次元にちょうど 個ずつ(指数 )の完全モース関数が あり、そこから (奇数次は )が即座に読める。逆に、ある多様体に「臨界点が少ないモース関数」を 構成できれば、ベッチ数の上限が分かり、位相が制限される。この「関数を作ってホモロジーを縛る」方向の使い方が、 無限次元への一般化(次章のフレアー理論への布石)や、幾何学的トポロジーで威力を発揮する。
モース不等式は、微分位相幾何の核心的な二重性を最も鮮明に示します。左辺の臨界点 は関数 に依る (解析・微分の側)。右辺のベッチ数 は** の位相だけに依る**(トポロジーの側)。不等式は、 好き勝手に関数を選んでも臨界点をベッチ数より少なくはできない、と告げる。関数の解析が、空間の位相に 縛られているのです。
注意 つまずきポイント
- は下限であって、達成できるとは限らない。 完全モース関数が存在すれば等号だが、一般には 余分な臨界点(対で相殺するもの)が要ることもある。強不等式がその相殺を定量化。
- オイラー標数だけは常に等号。 各次元の不等式は緩くても、交代和 は必ず成り立つ (境界写像で相殺する臨界点は指数が隣り合い、符号が逆で打ち消すから)。
- ベッチ数は係数体に依りうる(ねじれ)。 厳密には体係数のベッチ数で不等式を述べる。 係数の ねじれ部分は別途モース理論の境界写像に現れる(次章)。
この章のまとめ
- モース関数は CW 構造を与え、弱モース不等式 :指数 の臨界点は 次ベッチ数以上必要 (穴があれば作る臨界点が要る)。
- 強モース不等式は交代部分和で相殺を反映し、全体の交代和は等式 (モースの オイラー標数公式)。ポアンカレ–ホップ・劣位集合の実演と同じ一本の等式。
- 左辺(臨界点)は関数に依り、右辺(ベッチ数)は位相だけに依る。微分の解析が位相に縛られるのがモース理論の心。
不等式は臨界点とベッチ数を結びました。では境界写像そのものを臨界点だけから作れないか——次章は 勾配の流れで臨界点をつなぎ、ホモロジーを臨界点だけから直接構成するモースホモロジーへ進みます。