第4章 リー括弧 — 無限小の非可換性
回転は、順序で結果が変わる
前章でリー環=単位元の接空間(ベクトル空間)を得ました。でもベクトル空間の情報——足し算とスカラー倍—— だけでは、群の大事な性質を取りこぼしています。群は一般に可換でない()。この非可換性は、 接空間の線形構造には現れません。何か追加の構造が要る。
非可換性を体で感じるには、 次元の回転がうってつけです。「x軸まわりに回してから y軸まわり」と 「y軸まわりに回してから x軸まわり」——結果は違います。下で確かめてください。
角 を大きくすると、左(x→y)と右(y→x)の箱の向きが明らかにずれます。 でずれは消えますが、 ずれの主要項は に比例し、その係数がリー括弧 。回転の「順序の効き方」を無限小で 取り出したものが、リー括弧なのです。
リー括弧 =群の非可換性(順序の効き)を無限小で測る量。リー環にはこれが刻まれている。
リー括弧の定義
行列群では、リー括弧は交換子そのものです。
定義 リー括弧(交換子)
行列のリー環 で、 のリー括弧を
(交換子)で定める。(リー環は括弧で閉じる)。可換な群では 。
なぜ交換子が非可換性を測るのか。1パラメータ部分群 (第5章)で「行って戻る」交換子 を計算すると、主要項が になります。群での 「 方向へ進み、 方向へ進み、 を戻し、 を戻す」——完全に可換なら元に戻るはずのこの往復が、 どれだけ元からずれるか。そのずれが 。デモの はまさにこれです。
例 so(3) のリー括弧=外積
の基底 (各軸の無限小回転)は
これはベクトルの外積 と同じ構造。 次元回転の非可換性が、外積として 現れる。物理では (角運動量の交換関係)——量子力学のスピン・角運動量の 土台がここにある。
リー環の公理
リー括弧の性質を抽象化すると、リー環が「ベクトル空間+括弧」として公理化できます。行列を離れても、この公理を みたすものはリー環です(抽象リー環は非可換環・リー環で本格的に扱います)。
定義 リー環(抽象)
ベクトル空間 に双線形な括弧 が定まり、
- (反対称)(ゆえに )、
- (ヤコビ恒等式)
をみたすとき、 をリー環という。
交換子 が反対称なのは明らか。ヤコビ恒等式も、交換子を展開すると項が打ち消し合って 成り立ちます(結合律の“影”)。ヤコビ恒等式は「非可換性そのものが従うべき整合性」で、リー環論の背骨です。 これは、群の結合律 を無限小に翻訳したものと言えます。
注意 リー環に群の情報がどこまで残るか
リー括弧は「無限小の非可換性」——群の 次までの情報を捉える。驚くべきことに、これだけで(連結・単連結なら) 群がほぼ復元できる(第7章のリー群–リー環対応)。曲がった非可換な群全体が、平らなベクトル空間+括弧という 有限次元の代数データに凝縮される。ベクトル空間( 次)に括弧( 次)を足しただけで群が決まる——これが リー理論の核心的な驚き。第6章のBCH公式が「括弧だけで積が書ける」ことを保証する。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- リー括弧はベクトル空間構造の“外”の情報。 足し算では非可換性を捉えられない。 が群の順序の効きを 記憶する。可換群では 。
- は行列積の交換子(行列群の場合)。 抽象リー環では、公理(反対称+ヤコビ)をみたす括弧なら 何でもよい。行列は代表例。
- ヤコビ恒等式は結合律の無限小版。 「掛け算の順序を組み替える」整合性。単なる技術的条件でなく、群の結合性の 痕跡。
- は外積。 の括弧はベクトルの外積と同型。回転の非可換性が 角運動量の交換関係になる。
この章のまとめ
- リー括弧 (交換子)=群の非可換性を無限小で測る量。往復交換子 の主要項が 。可換群では 。
- の括弧は外積()=角運動量の交換関係。
- 抽象リー環=ベクトル空間+双線形括弧で、反対称とヤコビ恒等式(結合律の無限小版)をみたすもの。
- リー環(ベクトル空間+括弧)は群を(局所的に)ほぼ復元する情報をもつ。次章では、無限小(リー環)から有限の対称性(リー群)へ積み上げる橋——指数写像を導入します。
次章では、指数写像 を行列指数関数として定義し、リー環の元から1パラメータ部分群を生み出す様子を体感します。