第1章 多様体とは
地球儀に「まっすぐな座標」は貼れない。それでも微積分をしたい
地球は丸いのに、地図帳(アトラス)は平らな紙の集まりで世界を覆っています。一枚では歪むけれど、各地域を 平らな地図で表し、重なりで貼り合わせれば、球全体を扱える。「局所的には平らな 、でも全体は曲がっている」 ——この空間が多様体です。
なぜ必要か。微積分は の上でしか作っていませんでした。でも物理の舞台(時空、相空間)や 幾何の対象(曲面、リー群)、力学系の状態空間は曲がっている。そこで微積分を「座標に依らない形」に 書き直し、曲がった空間の上へ移植する必要があります。その第一歩が、曲がった空間を「平らな地図(チャート)の 貼り合わせ」として厳密に定義すること。この章では、チャート・アトラス・可微分構造を定め、多様体の上で 「なめらか」が意味をもつようにします。集合と位相で作った位相空間に、微分の構造を載せるのです。
多様体 = 局所的に (チャート)で、重なりがなめらかに貼り合う(アトラス)空間。曲がった空間で微積分をやり直す舞台。
チャートとアトラス
定義 チャート・座標
位相空間 の開集合 から の開集合への同相写像 をチャート(座標近傍)という。 が点 の局所座標。 を多様体の次元という。
チャートは「 の一部 を、平らな の地図に写す」座標系。ただし一枚では全体を覆えないことが普通です (地球を一枚の平面地図で歪みなく描けないように)。だから複数のチャートで覆い、重なりでの「つじつま」を要求します。
定義 アトラス・両立性
チャートの族 が を覆う()ときアトラスという。2つのチャートの重なり 上で、座標変換(推移写像) が 級(なめらか)であるとき、2チャートは両立するという。すべてのチャートが両立するアトラスを 可微分アトラスという。
要は「地図と地図の重なった部分で、座標の読み替えがなめらか」。この推移写像は の開集合間の写像なので、 微積分の意味で かどうかを問える——曲がった の話を、平らな の話に翻訳しているのが ミソです。これが「 上のなめらかさ」の定義を可能にします。
定義 可微分多様体
極大な可微分アトラス(可微分構造)を備えた(ハウスドルフで第二可算な)位相空間を可微分多様体 ( 多様体)という。
立体射影でチャートを体感する
球面 は 枚のチャートでは覆えません(どこかに“地図の破れ目”が要る)。でも 枚で覆えます——北極からの 立体射影と南極からの立体射影。下で体感してください。点 を動かすと、北極 から平らな平面への射影 (座標)が変わります。 が北極に近づくと座標が へ飛ぶ—— 枚のチャートは北極を覆えない。 だから北極側のもう一枚と合わせて、球面全体を覆うアトラスを作ります。
北極を除いた が平面 と同一視でき、南極を除いた も同様。 枚の重なり (両極を除いた球面)での座標変換は 型のなめらかな写像で、両立します。 チャートで が 可微分多様体になるのです。
例 多様体の例
なめらかな写像と微分同相
多様体の上で「なめらかな写像」を定めます。チャートで に降ろして、微積分の言葉を使います。
定義 なめらかな写像・微分同相
多様体間の写像 がなめらか()とは、チャートで表した ()が であること(チャートの取り方によらない——両立性のおかげ)。なめらかな全単射で逆もなめらかなものを 微分同相といい、微分同相な多様体は「同じ」とみなす。
「 の写像を、チャートで に降ろして微積分で判定する」。両立性(推移写像がなめらか)のおかげで、 チャートの取り方によらず「なめらか」が定まります。微分同相は、集合と位相の同相(連続の同型)を 微分の世界へ強めたもの——多様体論での「同じ形」です。
注意 エキゾチックな微分構造
同じ位相空間に、異なる(微分同相でない)可微分構造が入ることがある。ミルナーは に標準と異なる微分構造 (エキゾチック球面)を発見した。さらに衝撃的に、 だけは非可算個の異なる微分構造をもつ (ドナルドソン・フリードマン、 次元の特異性)。位相的には同じでも微分的には違う——位相と微分の間に深い溝がある。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- 多様体は「外の空間」に埋め込まれていなくてよい。 チャートとアトラスだけで内在的に定義される(埋め込みは次章の別の話)。抽象的な多様体が主役。
- 両立性(推移写像が )が微分構造の核心。 各チャートで に降ろし、重なりでなめらかに貼る。これで「 上のなめらかさ」が座標に依らず定まる。
- 枚のチャートで覆えるとは限らない。 球面は 枚要る。コンパクトな多様体は 枚では覆えない( に同相な開集合で覆えない)。
- 微分同相 ≠ 同相。 位相的に同じ(同相)でも微分構造が違うことがある(エキゾチック球面、)。
この章のまとめ
- 多様体は局所的に (チャート)で、重なりで座標変換がなめらか(両立性)に貼り合う空間。極大アトラス=可微分構造。曲がった空間で微積分をやり直す舞台。
- 球面 は立体射影の** チャート**で覆える( 枚では北極を覆えない)。、行列群が例。
- なめらかな写像はチャートで に降ろして判定。微分同相が多様体の「同じ形」。位相が同じでも微分構造が違うことがある(エキゾチック球面)。
次章は、多様体の中に多様体を見る——はめ込み・埋め込み・沈め込みと正則値定理を扱います。