第1章 加群とは
スカラーの世界を、体から環へ
線形代数のベクトル空間は「体の上の」空間でした。スカラー倍の係数が体( や 、割り算のできる世界)だったからこそ、基底がとれ、次元が定まり、話がすっきりしていた。では、 係数を体でなく環( のように割り算ができないかもしれない世界、環論)にしたら、 何が起こるでしょう。
これが加群です。ベクトル空間の素直な一般化ですが、係数の割り算が効かないぶん、基底が取れないこともあり、 ずっと豊かで繊細になります。ご褒美は絶大——**「 上の加群 = アーベル群」「 上の加群 = 線形変換のついたベクトル空間」**と、別々に見えた対象が一つの理論に統一される。線形代数のジョルダン標準形も、 有限アーベル群の分類も、実は同じ「PID上の加群の構造定理」(第6・7章)の二つの顔なのです。
加群=環の上のベクトル空間。係数の割り算が効かないぶん繊細だが、線形代数と群論を一つの言葉にまとめる。
加群の定義
定義 加群
環 (単位元 をもつ)に対し、アーベル群 とスカラー倍 が、次を みたすとき を左 加群という:
( が可換なら左右の区別は不要。以下、可換環を主に扱う。)
条件はベクトル空間の公理とまったく同じ——「分配則・結合則・単位元」。違いはただ一点、係数 が体でなく 環だということ。 が体なら、これはベクトル空間の定義そのもの。加群は「体を環に置き換えただけのベクトル 空間」です。しかし、この一点の置き換えが劇的な違いを生みます(次節)。
例——一つの定義が多くを統一する
加群の威力は、その例の広さにあります。係数環 を選ぶだけで、まったく別分野の対象が現れます。
例 加群の例(統一の力)
加群がアーベル群と同じなのは、示唆的です。アーベル群には掛け算がないのに、 ( 回足す)という操作が自動的に「 によるスカラー倍」を定める。だからアーベル群は最初から 加群。同様に 加群は「 をどう作用させるか(線形変換 )」の情報を持つ——線形代数の 「行列 の分析」が、加群論の言葉になります。
体と環の決定的な違い——基底が取れない
ベクトル空間と加群を分ける、最も重要な違いがこれです。体の上では必ず基底が取れる(線形代数の基本定理)。 環の上では基底が取れないことがある。この一点が、加群論を線形代数よりずっと豊かにします。
定理 加群には基底がないことがある
加群 ()は、 でない元をもつのに基底をもたない。任意の元 は をみたし(ねじれ)、一次独立な元が存在しないから。
証明
の任意の元 に対し だが ( の中で)。もし が基底の 一部なら「」でなければならないが 。よって一次独立な元が一つもとれず、基底が 存在しない。∎
体の上なら、 かつ なら が可逆で ——矛盾なので「ねじれ」は起きません。 ところが環()では が可逆でないので、 なのに というねじれ元が存在できる。 は「有限なのに でない」加群で、基底も次元もない。この「ねじれ」こそ、係数の割り算が 効かないことの直接の帰結であり、加群論の繊細さの源です(第4・6章で深掘り)。
注意 加群論の二つの顔——線形代数と群論の統一
(体)に特殊化すれば線形代数、 ならアーベル群論、 なら線形変換論。加群論は、 これらを一つの言葉でまとめる。だから加群論で証明した定理は、体・・ の三つの世界に同時に 効く。第6・7章の「PID上の構造定理」が、有限アーベル群の分類とジョルダン標準形という、一見無関係な二大 定理を同時に生むのは、この統一の力の頂点。「別々に見えたものが実は同じ」——加群論の醍醐味。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- 加群=環の上のベクトル空間。 公理はベクトル空間と同じ、係数が体でなく環なだけ。だが基底が取れないことが ある——ここが本質的な違い。
- アーベル群= 加群。 別概念でなく同じもの。( 回足す)がスカラー倍を自動的に定める。 群論が加群論に含まれる。
- 加群=線形変換つき空間。 の作用が線形変換 。線形代数の行列分析が加群の言葉になる。
- ねじれ元は体では起きない。 は が非可逆な環でのみ。 が基底をもたない原因。
この章のまとめ
- 加群=環 の上のベクトル空間(公理はベクトル空間と同じ、係数が体でなく環)。
- 一つの定義が多くを統一: でベクトル空間、 でアーベル群、 で線形変換つき空間。群論・線形代数が加群論に吸収される。
- 体との決定的な違い:基底が取れないことがある( はねじれ元をもち基底なし)。係数の割り算が効かないことの帰結で、加群論の繊細さの源。
- 加群の統一力が、後の構造定理で有限アーベル群の分類とジョルダン標準形を同時に生む。次章では、部分加群・剰余加群・準同型定理——環論と平行する基本の道具を整えます。
次章では、部分加群・剰余加群と準同型定理(同型定理)を、群論・環論と平行に整備します。