第7章 リー環とは
ここから後半、まったく別の非可換代数——リー環に入ります。リー環は普通の掛け算を持たず、代わりに
「括弧積 [X,Y]」という反対称な演算を持ちます。奇妙に見えますが、これは自然に現れます。連続的な対称性
(回転・並進などのリー群)を単位元のところで**線形化(微分)**すると、ちょうどリー環が
立ち現れるのです。括弧積は「無限小の非可換性」を測る。この章では、リー環の定義と基本例、そして自分自身への
作用=随伴表現までを整えます。
なぜ括弧積か:非可換性を微分する
リー群で見たことを思い出します。回転のような連続対称性は、単位元の近くで
g≈I+εX(X は接ベクトル)と線形近似できました。二つの対称性の非可換性
ghg−1h−1 を ε の二次まで展開すると、主要項に XY−YX が現れる——「順序を入れ替えたときの
ずれ」が、無限小のレベルでは XY−YX で測られるのです。これを括弧積と呼びます。行列で書けば
[X,Y]=XY−YX(交換子)。可換なら 0、非可換ほど大きい。リー群の非可換性を、その接空間(リー環)の
括弧積が記録します。
定義 リー環
体 k 上のベクトル空間 g に、双線形な積 [⋅,⋅]:g×g→g
(括弧積)が与えられ、次を満たすとき g をリー環という:
- 反対称性:[X,X]=0(ゆえに [X,Y]=−[Y,X])、
- ヤコビ恒等式:[X,[Y,Z]]+[Y,[Z,X]]+[Z,[X,Y]]=0。
普通の環の結合律 (XY)Z=X(YZ) の代わりに、リー環にはヤコビ恒等式があります。これは
「括弧を取る操作 adX=[X,⋅] が、括弧積について微分(ライプニッツ則)のように振る舞う」ことの
言い換え——adX[Y,Z]=[adXY,Z]+[Y,adXZ]。結合律を捨てる代わりに、
「括弧を取る=微分」という構造をヤコビ恒等式が保証します。行列の交換子 [X,Y]=XY−YX は、実際に反対称性と
ヤコビ恒等式を満たします(直接計算で確認できる)。
基本例:古典リー環
行列の交換子から、重要なリー環が一斉に得られます。リー群の古典群を線形化したものです。
定義 古典リー環
n×n 行列に交換子 [X,Y]=XY−YX を入れたものが一般線形リー環 gln。その部分:
- sln={X:trX=0}(跡 0)——特殊線形リー環。SLn(det=1)の線形化。
- son={X:X⊤=−X}(反対称)——直交リー環。SOn(回転群)の線形化。
- un={X:X∗=−X}(反エルミート)——ユニタリリー環。Un の線形化。
条件が線形(跡 0・反対称)なので、これらはベクトル空間。しかも交換子で閉じます(たとえば跡 0 の行列
どうしの交換子は跡 0:tr[X,Y]=tr(XY)−tr(YX)=0)。リー群の
「det=1」「直交」という非線形な条件が、リー環では「跡 0」「反対称」という線形な条件に化ける——
これが線形化のご利益で、群を調べる難問が、線形代数で扱えるリー環の問題に落ちます。最小の非自明な例
sl2(跡 0 の 2×2 行列、3 次元)は、後半の主役です。
随伴表現:リー環が自分自身に作用する
リー環にも表現(作用する空間)があります。最も基本的なのが、リー環が自分自身に括弧積で作用する
随伴表現です。
定義 随伴表現
リー環 g の各元 X に、線形写像
adX:g→g,adX(Y)=[X,Y]
を対応させる。X↦adX は g から gl(g) への準同型
(ad[X,Y]=[adX,adY]、これはヤコビ恒等式の言い換え)で、随伴表現
という。
随伴表現は、リー環を「自分の括弧作用を通して自分自身を見る」鏡です。adX が
gl(g) への準同型になる、という事実の証明がまさにヤコビ恒等式そのもの——ヤコビ恒等式は
「ad が表現である」ことと同義でした。随伴表現は後半の全編で主役を務めます。第9章のキリング形式は
ad の跡で定義され、第10章のルート分解は ad の固有空間分解です。リー環の構造は、
ad という自己作用の中に符号化されているのです。
注意 リー環と結合環の橋:普遍展開環
リー環の括弧積 [X,Y] は、実は結合的な積 XY の交換子 XY−YX として「実現」できる。任意のリー環
g に対し、[X,Y]=XY−YX が成り立つ最小の結合代数 U(g)(普遍展開環)が作れる
(ポアンカレ–バーコフ–ウィットの定理)。これにより、リー環の表現論を結合環(U(g))の加群論として
扱える——前半の非可換環論と後半のリー環論が、この普遍展開環でつながる(第12章)。
注意 つまずきポイント
- リー環は結合的でない。[X,Y] に「結合律」はなく、代わりにヤコビ恒等式。[[X,Y],Z]=[X,[Y,Z]] が
普通。ヤコビは「ad が微分/表現」を保証するもの。
- 括弧積 = 無限小の非可換性。リー群の ghg−1h−1 の二次項が [X,Y]。可換群のリー環は
[X,Y]≡0(アーベルリー環)。
- 線形条件になるのがご利益。群の非線形条件(det=1・直交)が、リー環では線形条件(跡 0・反対称)に。
だから線形代数で構造解析ができる。
この章のまとめ
- リー環=括弧積 [⋅,⋅](反対称・ヤコビ恒等式)を持つベクトル空間。連続対称性(リー群)を
単位元で線形化して現れ、括弧積は無限小の非可換性 XY−YX を測る。
- 古典例 gln⊃sln(跡 0)、son(反対称)、un(反エルミート)。
群の非線形条件がリー環では線形条件に化ける。
- 随伴表現 adX=[X,⋅]:リー環が自分自身に括弧で作用する鏡。ad が準同型なのが
ヤコビ恒等式。キリング形式・ルート分解はすべて ad から作られる。
- 普遍展開環 U(g) が、リー環を結合環に埋め込み、前半の非可換環論と橋渡しする。
次章から、リー環の構造論を組み立てます。まずは「どれだけ可換に近いか/遠いか」を測る階層——可解リー環・
べき零リー環を導入し、エンゲルとリーの定理でその構造を明らかにします。