第8章 マルチンゲール
公平なコイン賭博。表なら 、裏なら 。今いくら勝っていようと、次の一手の期待値は —— 持ち金は増えも減りもしないのが「公平」の意味です。この「今の値が未来の最良予測」という性質を持つ確率過程を マルチンゲールと呼びます。前章の条件付き期待値が、そのまま定義の言葉になります。 そしてここから「どんな賭け方をしても勝てない」という、数学的に厳密で、賭博者には残酷な定理が導かれます。
情報の流れ:フィルトレーション
時間とともに情報が増えていく様子を、σ-加法族の増大列で表します。
定義 フィルトレーションと適合
σ-加法族の増大列 (各 )を フィルトレーションという。 は「時刻 までに得た情報」。 確率過程 が適合とは、各 が -可測であること(時刻 には の値が分かっている)。
「情報は増える一方(前章の σ-加法族=情報量が育っていく)」——これがフィルトレーション。賭博なら =「 回目までの出目の記録」です。
定義 マルチンゲール
適合過程 が各 を満たし、
のときマルチンゲールという。「」なら劣マルチンゲール(有利な賭け)、 「」なら優マルチンゲール(不利な賭け)。
定義の心はただ一つ:今の値 こそが、次の値の(今の情報での)最良予測。前章のタワー則を繰り返せば ——期待値は時間によらず一定。公平な賭けでは、いつまで続けても平均は初期値のまま。 コイン賭博の持ち金 ( 独立平均 )は、 でマルチンゲールの原型です。
止め時を選ぶ:停止時刻
賭博者は「勝ち逃げ」したい。ある条件が来たら止める、という戦略を数学にします。ポイントは 「今この瞬間に止めるかは、今までの情報だけで決めねばならない」——未来を見て止めることはできません。
定義 停止時刻
に値をとる確率変数 が停止時刻とは、各 で (時刻 には「もう止めたか」が分かる)。
「 が初めて に達したら止める」は停止時刻(到達したかは今分かる)。一方「 が生涯の最大値に なった瞬間に止める」は停止時刻でない(未来を知らないと判定できない)。この「未来を覗けない」制約が、 次の定理で賭博者の望みを打ち砕きます。
任意抽出定理:戦略では勝てない
定理 ドゥーブの任意抽出(optional stopping)定理
をマルチンゲール、 を停止時刻とする。 が有界()など適当な条件のもとで
(有界でなくとも、 a.s. かつ が一様可積分なら成り立つ。)
主張は衝撃的です。どんな停止戦略 を選んでも、止めた時点の平均持ち金は初期値のまま。 「公平な賭けに、勝てる止め方は存在しない」。証明の心臓は、前章のタワー則です。
証明
(有界)とする。差分 を使い、賭け金 (時刻 に「まだ止めていない」なら )を考える。 なので は -可測——過去の情報だけで決まる賭け(これが停止時刻の効き所)。すると
期待値を取り、各項でタワー則と「既知量は外へ」を使うと (マルチンゲール性 )。総和して 。
一般に「過去の情報だけで賭け金を決める戦略 (予測可能という)で作った新しい過程 もまたマルチンゲール」——これがマルチンゲール変換で、俗に言う 「システムベッティングでは胴元に勝てない」の数学的正体です。ただし条件は本質的で、これを外すと破れます。
注意 有界性が命:倍賭け戦法の罠
賭博で「勝つまで賭け金を倍々にし、 勝ったら止める」戦略(マーチンゲール法)を考えると、 確率 でいつか勝って で終わる——! 定理が破れたわけではない。 この は有界でなく、途中の負債が青天井(一様可積分でない)で、定理の仮定を満たさないだけ。 「無限の資金と時間があれば必ず勝てるが、現実にはない」——仮定の重さがそのまま現実の教訓になっている。
マルチンゲール収束定理
マルチンゲールは、暴れ続けることができません。有界ならば必ず落ち着きます。
定理 ドゥーブのマルチンゲール収束定理
がマルチンゲールで ( 有界)ならば、 はある確率変数 に 概収束する。特に非負優マルチンゲールは必ず概収束する。
証明はアップクロッシング補題——「区間 を下から上へ横切る回数の期待値が有界」を示すのが核心です。 もし収束しなければ、ある を無限回上下に横切る=公平な賭けなのに無限回「安く買って高く売る」ことになり、 任意抽出定理と矛盾する。この鮮やかな背理が、収束を強制します。
収束定理は理論の至る所で効きます。可積分な と増大するフィルトレーションから作った (情報が増えるにつれ更新される最良予測)はマルチンゲールで、。 「情報を増やしていけば予測は落ち着く」。前章の強法則も、実はマルチンゲール収束で証明できます。
注意 つまずきポイント
- マルチンゲールは「独立増分」より広い。 増分は独立でなくてよく、条件付き平均が でありさえすればよい。 独立和はマルチンゲールの一例にすぎない。
- 任意抽出は無条件ではない。 有界・一様可積分などの仮定が要る。倍賭け戦法はこの仮定を破る反例で、 「仮定を落とすと結論も落ちる」を身をもって示す。
- 停止時刻は「今の情報で判定できる止め時」。 未来を見て止める(最大値の瞬間など)のは停止時刻でない。
この章のまとめ
- フィルトレーション(増える情報 )の上で、 を満たす過程が マルチンゲール(=公平な賭け)。今の値が未来の最良予測、期待値は一定。
- 停止時刻は「今の情報で決まる止め時」。任意抽出定理 ——公平な賭けに勝てる 戦略はない。証明はタワー則+予測可能な賭け金。仮定(有界性)を破る倍賭け戦法が反例。
- 収束定理: 有界なマルチンゲールは概収束(アップクロッシング)。 の収束や 強法則を統一的に導く。
離散時間はここまで。次章は時間を連続にした極限——ブラウン運動。ランダムウォークを CLT で縮めた先に現れる、 連続だが至る所微分不可能な、確率解析の主役に会います。