第9章 ブラウン運動
水に浮かぶ花粉が、無数の水分子に叩かれてでたらめに震える——ブラウンが顕微鏡で見たこの運動を、 アインシュタインが理論化し、ウィーナーが数学的に厳密化しました。それがブラウン運動。 離散のランダムウォークを、中心極限定理で連続時間へ縮めた極限に現れる、確率過程の王様です。 連続なのにどこでも折れ曲がって微分できないという、常識を裏切る対象に会いに行きます。
ランダムウォークを縮める
第6章の CLT を思い出します。 を独立に足す単純ランダムウォーク は、 ステップで標準偏差 に広がる()。これを「時間 に 歩」の細かい歩幅に スケールし直しましょう。時刻 までに 歩、各歩を に縮めると、
CLT より、固定した で (分散が に収束)。歩幅を にしたのは、 まさに CLT の 則に合わせるため——分散を潰さず形を保つ唯一のスケールです。この極限過程が ブラウン運動。歩数を無限に細かくした「連続時間ランダムウォーク」です。
定義と存在
極限の性質を公理として抜き出します。
定義 ブラウン運動(ウィーナー過程)
確率過程 がブラウン運動(標準)であるとは:
- 。
- 独立増分: に対し、増分 は独立。
- 定常正規増分:()——増分は正規で、分散は経過時間に等しい。
- 連続な道:ほとんどすべての で は連続。
「本当にそんな過程が存在するのか」は自明ではありません。 を満たす連続な見本道を確率 で作れることを 示したのがウィーナーの功績です。
定理 ウィーナーの存在定理
上の – を満たす確率過程(ブラウン運動)が存在する。
構成の一つ(レヴィ)は美しい内挿です。まず を決め、次に中点 を「両端の平均+独立な正規ゆらぎ」で埋める。さらに各区間の中点を同様に埋める——これを 二進的に無限に繰り返す。各段の補正が確率 で一様に小さくなる(ボレル–カンテリで押さえる)ので、 極限が連続関数になり、増分が要求どおり独立正規になる。ランダムウォークの分散加法性 が、そのまま条件 に化けています。
驚くべき性質
ブラウン運動の道は、私たちの微積分の常識を三重に裏切ります。
連続だが至る所微分不可能。 道 は確率 で連続なのに、どの点でも微分係数を持たない。 直感的には、時間を 進めると変位は (分散 より)なので、傾き 。どんなに拡大しても常にギザギザで、接線が引けない。 複素解析や微積分で扱った滑らかな曲線とは別世界です。
自己相似(フラクタル)。 に対し もまたブラウン運動。拡大しても縮小しても 同じ統計的な姿——スケール不変。時間軸を 倍にしたら空間を 倍する、あの 則がここにも。
二次変分が時間そのもの。 区間 を細かく刻むと、増分の二乗和が に収束する: 。普通の滑らかな関数ならこれは 。ブラウン運動は「一乗和(全変動)は無限、 二乗和は有限」という特異なバランスを持ち、これが次の伊藤解析で決定的に効きます。
そしてマルチンゲール(前章)との深い縁:
命題 ブラウン運動はマルチンゲール
は(自然フィルトレーションについて)連続時間マルチンゲール: で 。 さらに もマルチンゲール(これが二次変分= の別表現)。
(独立増分で平均 )。 「今の位置が未来の最良予測」——ブラウン運動は連続時間の公平な賭けの原型です。前章の任意抽出定理も連続版が成り立ち、 到達時刻の計算などに使えます。
伊藤解析への入り口
二次変分が でないことは、普通の微積分が使えないことを意味します。 に沿って積分 を定義しようとすると、 が のオーダーで、二乗が無視できない。 結果、連鎖律が伊藤の公式に変わります:
普通の微積分にない第二項 ——これが二次変分 の落とし子です。この 確率解析(伊藤積分)が、ブラウン運動を駆動項とする確率微分方程式を可能にし、 金融のブラック–ショールズ方程式、拡散現象、フィルタリング理論へと展開します。本章はその入り口まで。
注意 つまずきポイント
- 「連続なら微分できる」は誤り。 ブラウン運動が反例。連続性と微分可能性は別。至る所微分不可能な連続関数が 「典型的」に存在する(測度 )ことを、確率が教えてくれる。
- は ではなく のオーダー。 だから が生き残る。ここを見落とすと伊藤の公式の 第二項が理解できない。普通の微分の直感をそのまま持ち込まない。
- 増分は独立でも、 どうしは独立でない。 と ()は で正の相関。独立なのは 重ならない区間の増分。
この章のまとめ
- ブラウン運動は、ランダムウォークを スケールで縮めた連続時間極限。独立・定常な正規増分 と連続な道で定義され、ウィーナーが存在を示した(中点内挿+ボレル–カンテリ)。
- 道は連続だが至る所微分不可能、自己相似、二次変分= 。 も もマルチンゲール。
- 二次変分が でないため微積分が壊れ、連鎖律が伊藤の公式()に。確率解析・確率微分方程式の入り口。
これで確率論の本流——独立和から確率過程まで——を一通り見ました。残る三章は、この理論を現実のデータへ向ける 統計学へ。標本から母集団を推し量る推定・検定・ベイズを、これまでの定理を土台に組み立てます。