数学の作り方 How to make Mathematics

第5章 指標 — トレースに凝縮する

行列を「一つの数」に潰す

前章まで、表現を行列の族 ρ(g)\rho(g)gGg\in G)として扱ってきました。でも行列は成分が多くて扱いにくい。ここで 表現論の魔法が始まります——ρ(g)\rho(g) を、そのトレース(対角成分の和)という一つの数に潰す。すると、 G|G| 個の数の並びだけで、表現の全情報が復元できてしまう。この「トレースの列」が指標です。

なぜトレースがそんなに強力なのか。トレースは基底の取り替えで不変(tr(TρT1)=trρ\mathrm{tr}(T\rho T^{-1})=\mathrm{tr}\rho線形代数)——だから同値な表現は同じ指標。さらに共役な元で同じ値をとる。この“不変性”の おかげで、指標は表現の本質だけを取り出し、余分な基底の情報を捨てるのです。

指標=各元のトレースの列。基底に依らず、同値な表現を同じ数に、共役な元を同じ値にする。表現の本質の凝縮。

指標の定義

定義 指標

表現 ρ:GGL(V)\rho:G\to\mathrm{GL}(V)指標

χρ(g)=trρ(g)(gG)\chi_\rho(g)=\mathrm{tr}\,\rho(g)\qquad(g\in G)

で定める(各 gg でのトレース)。χρ(e)=trid=dimV\chi_\rho(e)=\mathrm{tr}\,\mathrm{id}=\dim V(単位元での値=次数)。既約表現の指標を 既約指標という。

指標は GG から C\mathbb C への関数で、χρ(e)=dimV\chi_\rho(e)=\dim V(単位元でのトレースが次元)。前章の 二面体群の実演で見たトレースが、まさにこの指標の値です。もう一度、指標として見てみましょう。

回転 rkr^k の指標は 2cos(2πk/n)2\cos(2\pi k/n)、鏡映は 00同じ“種類”の元(すべての回転 rkr^k、すべての鏡映)が、 指標で似た値をとるのが見えます。とくに、共役な元は同じ指標値をもちます(次節)。指標は元を“種類ごと”に 束ねて数える道具なのです。

指標は類関数

指標の決定的な性質——共役な元で同じ値をとる(類関数)。だから指標は、群のすべての元でなく、共役類ごとに 一つの値をもてば決まります。

定理 指標は類関数

指標 χρ\chi_\rho類関数である:共役な元で同じ値をとる、

χρ(hgh1)=χρ(g)(g,h).\chi_\rho(hgh^{-1})=\chi_\rho(g)\qquad(\forall g,h).

また同値な表現は同じ指標をもつ。

証明

χρ(hgh1)=tr(ρ(h)ρ(g)ρ(h)1)=trρ(g)=χρ(g)\chi_\rho(hgh^{-1})=\mathrm{tr}\big(\rho(h)\rho(g)\rho(h)^{-1}\big)=\mathrm{tr}\,\rho(g)=\chi_\rho(g)(トレースの 巡回性 tr(ABA1)=trB\mathrm{tr}(ABA^{-1})=\mathrm{tr}\,B線形代数)。同値 ρ=TρT1\rho'=T\rho T^{-1} でも tr\mathrm{tr} 不変。∎

トレースの巡回性から、指標は共役類の上の関数——共役類の数だけの値で決まります。群論で共役類が 「本質的に同じふるまいの元の束」だったのを思い出してください。指標はまさにその束ごとに一つの数を割り当てる。 だから第7章の指標表は「共役類 × 既約表現」の表になります。共役類の数が、既約表現の個数を数える鍵(第7章)に なります。

指標の演算と、表現を決める力

指標は、表現の演算(直和・テンソル積・双対)と整合します。そして最も重要な事実——指標が表現を同値を 除いて完全に決める

定理 指標の演算

χVW=χV+χW,χVW=χVχW,χV(g)=χV(g).\chi_{V\oplus W}=\chi_V+\chi_W,\qquad \chi_{V\otimes W}=\chi_V\cdot\chi_W,\qquad \chi_{V^*}(g)=\overline{\chi_V(g)}.

直和は和、テンソル積は積、双対は複素共役に対応する。

定理 指標は表現を決める

有限群の複素表現 V,WV,W について、χV=χW\chi_V=\chi_W(指標が一致)    \iff VWV\cong W(同値)。指標が表現の完全な 不変量。

指標が表現を決める——これが指標理論の核心です。行列の族という膨大な情報が、共役類ごとの数個の数(指標)に 凝縮され、しかも情報を失わない。χVW=χV+χW\chi_{V\oplus W}=\chi_V+\chi_W より、表現の分解は指標の分解として読めます (第8章)。さらにテンソル積が指標の積になるので、複雑な表現の指標も掛け算で計算できる。指標は、表現論を 「数の計算」に変える翻訳装置です。次章では、既約指標が満たす美しい直交関係が、この計算を一気に実用化します。

注意 なぜトレースだけで十分なのか

一見「トレースだけで表現の全情報が復元できる」のは不思議だが、鍵は第6章の直交関係にある。既約指標は 互いに直交する“基底”をなし、任意の表現の指標をその基底で展開すれば、各既約の重複度が内積で読める。つまり 指標(トレースの列)は、既約指標という座標系での“座標”。座標が分かれば表現(同値を除いて)が決まる。 トレースが情報を捨てているように見えて、実は共役類の情報を余さず担っている——それを保証するのが次章の 直交関係。

つまずきポイント

注意 よくある誤解

  • 指標=各元のトレースの列。 一つの数でなく、gg ごとの trρ(g)\mathrm{tr}\,\rho(g)χ(e)=dimV\chi(e)=\dim V
  • 指標は類関数(共役類で一定)。 トレースの巡回性から。だから共役類の数だけの値で決まる。指標表の基礎。
  • 指標が表現を決める。 χV=χW    VW\chi_V=\chi_W\iff V\cong W。トレースだけで完全な不変量。直交関係(次章)が理由。
  • 直和は和・テンソルは積・双対は共役。 χVW=χV+χW\chi_{V\oplus W}=\chi_V+\chi_W など。表現の演算が指標の演算に。

この章のまとめ

  • 指標 χρ(g)=trρ(g)\chi_\rho(g)=\mathrm{tr}\,\rho(g)=各元のトレースの列。χ(e)=dimV\chi(e)=\dim V。基底に依らず、同値な表現を同じ指標に。
  • 指標は類関数(共役類で一定、トレースの巡回性)——共役類の数だけの値で決まる。演算は直和↔和・テンソル↔積・双対↔共役。
  • 指標が表現を同値を除いて完全に決めるχV=χW    VW\chi_V=\chi_W\iff V\cong W)。表現論が「数の計算」になる。分解は指標の分解として読める。
  • なぜトレースだけで十分かは、既約指標の直交関係が保証する。次章では、その第一直交関係を証明します。

次章では、既約指標が満たす直交関係(内積で δ になる)を証明し、指標を実用的な計算道具に変えます。