第3章 ダルブーの定理
前章で、シンプレクティックベクトル空間は次元だけで決まり、局所的な不変量を持たないと分かりました。この章は、 それを多様体全体に持ち上げます。結論は驚くべきものです——どんなシンプレクティック多様体も、局所的には すべて同じ標準形 に見える。リーマン幾何では各点の曲率が 局所的な情報を担い、曲がった空間と平らな空間は局所的に区別できました。ところがシンプレクティック幾何には 「曲率」に相当するものが一切ない。このダルブーの定理が、分野の性格を決定づけます。
主定理:局所的にはどこも標準形
定理 ダルブーの定理
を 次元シンプレクティック多様体とする。任意の点 のまわりに座標 (ダルブー座標)が取れて、その座標で すなわちシンプレクティック多様体は、局所的にはすべて標準的な相空間 に シンプレクティック同型。
前章の線形ダルブー(接空間で標準基底が取れる)は、各点での話でした。この定理は、それを「座標系」として ——近傍全体で通用する形で——実現できると主張します。線形代数(各点)から解析(近傍の座標)への飛躍で、 そこには閉性 が本質的に効きます。
証明の心:モーザーのトリック
証明の現代的な方法(モーザーの方法)は、それ自体がシンプレクティック幾何の思想を体現しています。「二つの シンプレクティック形式を、変形で繋ぐ」という発想です。
証明
(骨子・モーザーの方法)点 で接空間に線形ダルブー基底を取り、それを座標に伸ばすと、 で標準形に一致する が作れる。()は の近傍で によらず閉じて非退化 ( で一致するから近くでも非退化を保てる)。この の族を「一定に保つ」ような時間依存ベクトル場 を、(ここで 、ポアンカレ補題)で定める ——非退化性から が一意に取れる。その流れ が を満たし、 が を に引き戻す座標変換を与える。
証明の鍵は二つ。閉性 から (ポアンカレ補題)が使え、非退化性から その を打ち消すベクトル場 が一意に決まる。前章で強調した「非退化=各点の良さ、閉=つながり方の 良さ」の二つが、ここで協働してダルブー座標を生みます。モーザーの「形式を変形で繋ぐ」手法は、この後の 剛性の議論でも繰り返し現れる、シンプレクティック幾何の基本技法です。
リーマン幾何との決定的な違い
ダルブーの定理の意味を、リーマン幾何と正面から対比しましょう。ここに分野の性格の 違いが凝縮されています。
注意 曲率があるか・ないか
- リーマン幾何:計量 には曲率という局所不変量がある。曲がった空間(球面)は、平らな空間 (ユークリッド)と局所的に区別できる(測地線・角度で曲率が測れる)。「局所に情報がある」。
- シンプレクティック幾何: には曲率に相当する局所不変量がない。どのシンプレクティック多様体も 局所的にはすべて標準形。「局所に情報がない」。 だから研究の焦点が正反対を向く。リーマンは局所(曲率・測地線)、シンプレクティックは大域(多様体全体の形・ その上の運動・埋め込みの剛性)。
「局所に情報がない」ことは、一見つまらなく聞こえるかもしれません。でもこれは強力な武器です。局所計算は どこでも標準形で済むので、常に を使って計算できる。そして本当の難しさと豊かさは、 これらの標準的な小片が大域的にどう貼り合わさるか、多様体全体としてどんな形をとるか、その上で運動や 部分多様体(ラグランジュ、第4章)がどう振る舞うか、に集約されます。第10章のグロモフの非圧縮定理 ——「シンプレクティックな埋め込みには、体積だけでは説明できない大域的な制約がある」——は、この「局所は自由、 大域は硬い」という構図の劇的な現れです。
注意 つまずきポイント
- ダルブー = 局所不変量がない。曲率のようなものはない。すべて局所的には標準形 。 リーマン幾何の「局所の曲がり」の感覚を持ち込まない。
- 閉性と非退化が協働。ポアンカレ補題(閉性)でポテンシャル 、非退化性でそれを消すベクトル場。 二条件が揃って初めてダルブーが成り立つ。
- 焦点は大域へ。局所が自由なぶん、情報はすべて大域(多様体の形・運動・埋め込みの剛性)にある。以降の 章はこの大域を掘る。
この章のまとめ
- ダルブーの定理:任意のシンプレクティック多様体は、局所的にすべて標準形 に 見える(ダルブー座標)。線形の標準形が近傍の座標として実現できる。
- 証明はモーザーの方法(形式を で変形して繋ぐ)。閉性(ポアンカレ補題で )と非退化性 (それを消すベクトル場 が一意)が協働。
- リーマンとの決定的違い:シンプレクティックには曲率のような局所不変量がない。リーマンは局所(曲率)、 シンプレクティックは大域に情報がある。
- 「局所は自由、大域は硬い」——この構図が分野の性格を決め、グロモフの剛性(第10章)で頂点に達する。
次章は、前章で線形に導入したラグランジュ部分多様体を多様体版で扱います。半分次元の等方的な部分多様体 ——シンプレクティック幾何のあらゆる場面に顔を出す、最も重要な部分多様体です。