第4章 ラグランジュ部分多様体
第2章で線形に予告したラグランジュ部分空間を、多様体版に持ち上げます。シンプレクティック形式が完全に 消える、半分次元の部分多様体——これがラグランジュ部分多様体です。地味な定義ですが、 シンプレクティック幾何のあらゆる場面に顔を出します。正準変換、母関数、不変量、そして第11章のフレアー理論の 主役。「シンプレクティック幾何のすべてはラグランジュである」という有名な標語(ワインスタイン)が示す通り、 この分野を理解する鍵はラグランジュ部分多様体にあります。
定義:ω が消える半分次元の部分多様体
定義 ラグランジュ部分多様体
次元シンプレクティック多様体 の部分多様体 がラグランジュ部分多様体とは、
- (半分の次元)、
- ( の接ベクトルどうしの面積がすべて =等方的)。
を満たすこと。次元 は等方部分多様体として最大(第2章)。
「 が完全に消える最大の部分多様体」。標準座標では、位置だけの空間 (すべての運動量が )や、 運動量だけの空間 がラグランジュ部分多様体です。物理的には「位置を全部指定した状態の集まり」 ——古典的な配位空間にあたる。半分の次元で が消えるという条件が、驚くほど豊かな構造を持ちます。
余接束:ラグランジュ部分多様体の宝庫
ラグランジュ部分多様体が自然に湧き出す舞台が、余接束です。多様体 の余接束 (各点の余接空間を 束ねたもの)は、正準的なシンプレクティック構造を持ちます。
定義 余接束の正準シンプレクティック構造
多様体 の余接束 には、正準 形式 (トートロジー的 形式)があり、 が正準シンプレクティック形式を与える。 が配位空間なら は その相空間。
余接束の中で、ラグランジュ部分多様体は次のように豊富に現れます。
命題 余接束のラグランジュ部分多様体
- ゼロ切断 ()はラグランジュ部分多様体。
- 形式 のグラフ がラグランジュ が 閉形式()。とくに関数 の微分 のグラフ()は常にラグランジュ。
二つ目が美しい。「 形式のグラフがラグランジュ ⟺ その形式が閉じている」——シンプレクティックの条件 ()が、微分形式の条件()にぴたり翻訳される。関数 の勾配 のグラフはいつでも ラグランジュなので、関数一つからラグランジュ部分多様体が一つ生まれる。この対応が、次に述べる母関数の 仕掛けです。
母関数:ラグランジュ部分多様体を関数で作る
前の命題を使うと、ラグランジュ部分多様体(したがって正準変換、第6章)を、一つの関数から生成できます。
定義 母関数
関数 に対し、 はラグランジュ部分多様体( のグラフ)。この を 母関数という。より一般に、二つの座標系をまたぐ母関数 から正準変換が生成される。
母関数は、変分法のハミルトン–ヤコビ理論の心臓です。ハミルトン–ヤコビ方程式 を満たす母関数 (作用)を見つければ、運動が完全に解ける——「ラグランジュ 部分多様体を関数で記述する」という発想が、力学の解法そのものになる。抽象的なラグランジュ部分多様体が、 物理の作用と直結しているのです。
「すべてはラグランジュ」
ラグランジュ部分多様体が中心的である理由を、二つの標語で押さえます。
注意 ワインスタインの二つの標語
- 「シンプレクティック幾何のすべてはラグランジュである」:シンプレクティック多様体間の写像 がシンプレクティック() そのグラフ が積 (形式 )のラグランジュ部分多様体。写像の問題がラグランジュ部分多様体の 問題に翻訳される。
- ワインスタインの近傍定理:ラグランジュ部分多様体 の近傍は、 の余接束 の近傍にシンプレクティック 同型。ラグランジュのまわりも「局所に情報がない」(ダルブーのラグランジュ版)。
一つ目の標語は強力です。「シンプレクティックな写像」も「正準変換」も「力学の時間発展」も、すべて適当な積空間の ラグランジュ部分多様体として捉え直せる。だからラグランジュ部分多様体を理解することが、シンプレクティック 幾何全体を理解することになる。第11章のフレアーホモロジーが「二つのラグランジュ部分多様体の交わり」を数える 理論であるのも、この中心性の帰結です。
注意 つまずきポイント
- ラグランジュ = 半分次元・ が消える。等方的(面積ゼロ)で最大次元 。「小さい」のでなく 「ちょうど半分」がポイント。
- グラフがラグランジュ ⟺ 形式が閉。 形式のグラフの条件が 。関数の微分 はいつでも ラグランジュ(母関数の仕掛け)。
- 母関数は作用。ハミルトン–ヤコビの作用 がラグランジュ部分多様体を生む。抽象的な概念が力学の解法と 直結。
この章のまとめ
- ラグランジュ部分多様体 =(半分次元)かつ (等方的)。 が完全に消える 最大の部分多様体。標準座標では など。
- 余接束 が宝庫:ゼロ切断はラグランジュ、 形式のグラフがラグランジュ ⟺ 形式が閉。関数 の のグラフは常にラグランジュ。
- 母関数 ()でラグランジュ部分多様体・正準変換を生成。ハミルトン–ヤコビの 作用と直結。
- 「すべてはラグランジュ」:シンプレクティック写像=積のラグランジュ部分多様体。ワインスタイン近傍定理で そのまわりも標準形。ラグランジュ理解がシンプレクティック幾何全体の鍵。
前半(シンプレクティック多様体の基礎)が揃いました。次章からハミルトン力学を幾何の言葉で乗せます。 エネルギー関数 一つから運動 が決まり、その流れがエネルギーと体積(リウヴィル)を保つことを見ます。