第8章 モース関数とモースの補題
山岳地帯の地形図を思い浮かべてください。山頂、谷底、峠——これら「特別な点」の配置を見るだけで、地形の 大まかな形が分かります。モース理論の発想はまさにこれ。多様体 上のなめらかな関数 の臨界点 (山・谷・峠)を数えるだけで、 の大域的な形(ホモロジー・ハンドル分解)が復元できる。前章で 「勾配場の零点=臨界点、その指数がオイラー標数を作る」と予告しました。ここからは臨界点そのものを主役に、 微分の情報から空間の形を読み解きます。
臨界点と非退化性
関数 の臨界点は、微分が消える点 (山頂・谷底・峠のように「平ら」な点)。 その“型”を、二階微分=ヘッセ行列で見分けます。
定義 非退化臨界点とモース指数
臨界点 ()でのヘッセ行列 が 正則(行列式 )のとき、 を非退化という。非退化臨界点のモース指数 を、 の負の固有値の個数で定める。すべての臨界点が非退化な関数をモース関数という。
モース指数は「その点から見て、下り坂の独立な方向が何本あるか」。 次元多様体で、 なら全方向が 上り=極小(谷底)、 なら全方向が下り=極大(山頂)、その中間 が鞍点(峠: 方向に下り、 方向に上り)。 次元なら (谷)、(峠)、(山)の三種類です。 非退化とは「ヘッセが退化しない=二階の情報で型がはっきり決まる」こと。退化した臨界点(猿の鞍など、 三方向に下る峠)は、少し摂動すれば非退化な臨界点に割れて消えます。
モースの補題:臨界点の近くは放物面
非退化臨界点の絶大な利点は、その近くで が完全な標準形になることです。座標をうまく取り替えると、 はただの二次形式——上向き・下向きの放物面の組み合わせ——に見えます。
定理 モースの補題
非退化臨界点 (モース指数 )の近くに、 を原点とする適当な座標 がとれて
すなわち 個の下向き放物線と 個の上向き放物線の和。
証明 (着想)
を原点、 とする。テイラーの積分剰余を使うと、臨界点( 階が消える)なので と、対称行列値の関数 ()で書ける。 はヘッセの半分で非退化。あとは平方完成を関数係数のまま(グラム–シュミット的に)実行すると、 座標変換 (原点で正則)で の対角形になる。負符号の個数は慣性法則(シルヴェスター)で 不変= 。
「非退化臨界点の近くは、必ず放物面 」。この標準形が、モース理論の すべての計算を可能にします。臨界点ごとに複雑な関数を相手にせず、指数 だけ覚えておけば、局所的な 姿は完全に分かる。前章のポアンカレ–ホップで「勾配場の零点の指数が 」と使ったのも、この標準形の 勾配 から直ちに出ます( 個の符号反転で 写像度 )。
モース関数はほとんどの関数
モース理論が普遍的に使えるためには、「モース関数がいつでも存在し、しかも典型的」でなければなりません。 第1–2章のサード・横断性が、ここでも保証を与えます。
定理 モース関数の存在と稠密性
任意のコンパクト多様体 上に、モース関数は存在する。さらにモース関数はほとんどすべての関数—— どんな もいくらでも近いモース関数で近似でき、モース関数全体は稠密で開。
証明 (着想:ℝᴺ に埋め込んで高さ関数)
ホイットニーで と埋め込む。方向ベクトル ごとに 高さ関数 を考える。 が非退化臨界点しか持たない(モース)のは、 がガウス写像に関するある写像の正則値であるとき——サードの定理より、そんな はほとんどいたるところ。 だから一般の方向の高さ関数はモース関数。 の埋め込みに依らず一般の関数でも同様。
「一般の方向から見た高さ関数はモース」。前章までで培った「サードで一般の位置を拾う」論法が、ここでは 「モースな高さ方向を拾う」として働きます。だから多様体を調べたいとき、いつでも都合のよいモース関数を 一つ用意してよい。とりわけ高さ関数——多様体を空間に置いて上下の高さを測る関数——は、次章で ハンドル分解を目で見るのに最適な例になります。
注意 つまずきポイント
- 臨界点()と非退化(ヘッセ正則)は別条件。 臨界点であっても、ヘッセが退化すれば型が定まらない。 モース関数は「すべての臨界点が非退化」。退化臨界点は摂動で割れる(不安定)。
- モース指数は負の固有値の数(下り方向の本数)。 極小 ・極大 ・鞍点はその間。 ヘッセの符号数(慣性)で決まり、座標に依らない。
- 非退化 ⇒ 臨界点は孤立。 モースの補題の標準形の勾配は原点でしか消えないので、非退化臨界点は互いに離れて 有限個(コンパクトなら)。だから「数える」ことができる。
この章のまとめ
- 関数 の臨界点()の型をヘッセ行列で見分け、負の固有値の数をモース指数 とする (谷 ・峠中間・山 )。全臨界点が非退化な がモース関数。
- モースの補題:非退化臨界点の近くは標準形 。 局所的な姿が指数 だけで決まる。
- モース関数は稠密(存在し、一般の高さ関数はモース)。根拠はサードの定理。いつでも都合のよいモース関数を使える。
臨界点の局所的な姿が完全に分かりました。次章は、水位を上げながら「臨界点を一つ通過するたびに多様体に ハンドルが付く」様子を追い、 の形を臨界点から組み立て直します。実際に水位を動かして体感しましょう。