第4章 ヒルベルト空間と直交射影
長さだけでなく「角度」を測りたい
バナッハ空間では長さ(ノルム)が測れました。でも線形代数の幾何——直交、射影、正射影による 最短距離——を無限次元でも使いたい。それには内積が要ります。内積があれば「二つのベクトルのなす角」「直交」 が定義でき、ユークリッド幾何の道具がまるごと無限次元へ持ち込めます。内積をもつ完備空間がヒルベルト空間です。
測度論で が内積 をもつヒルベルト空間だと見ました。 ここではその一般論を、幾何の視点で作り直します。
定義 内積空間・ヒルベルト空間
ベクトル空間 上の内積 は、()、 第一変数について線形、 をみたす。これから がノルムになる。このノルムで完備な内積空間をヒルベルト空間という。 のとき は直交()という。
ヒルベルト空間=内積をもつ完備空間。長さに加えて角度・直交が測れ、ユークリッド幾何が無限次元で使える。
内積がもたらす二つの基本道具
内積からすぐ出る、しかし強力な二つの不等式・等式。以後の議論の土台です。
定理 コーシー–シュワルツと平行四辺形則
- コーシー–シュワルツ:。等号は が平行なとき。
- 平行四辺形則:。
証明
(1) とし 。 を 整理して得る。(2) を足す。∎
平行四辺形則は「そのノルムが内積から来るか」を判定する目印です。 は満たすがゼロでない の は 満たさない——内積が入るのは だけ(測度論で触れた の特権の理由)。
最良近似は直交射影——関数解析でいちばん使う定理
ヒルベルト空間の核心がこれです。「与えられた点 に、部分空間 の中でいちばん近い点は?」——答えは から へ下ろした垂線の足(直交射影)。誤差ベクトルが と直交します。有限次元の直感が、 そのまま無限次元で成り立つ。まず体感してください。
点 を動かすと、部分空間 (直線)への射影 が「 の中で にいちばん近い点」になり、誤差 が と直交(直角マーク)します。 上の別の点はどれも から遠い。そして (ピタゴラス)。これらが無限次元でもそっくり成り立つ、というのが射影定理です。
定理 射影定理(最良近似)
をヒルベルト空間、 を閉部分空間とする。任意の に対し、
を達成する が一意に存在し、それは (誤差が に直交)で特徴づけられる。 を直交射影という。
証明
とし、 なる列をとる。平行四辺形則を に当てると
( ゆえ最後の項 )。右辺は で 。よって は コーシー列。完備性と の閉性より 、。直交性は、任意の で を で展開すると が出る。一意性も直交性から従う。∎
証明で効いたのは平行四辺形則(内積のおかげ)と完備性(ヒルベルトのおかげ)。この二つが揃って初めて 「最良近似が存在する」。前章までの無限次元の不安(コンパクト性の喪失)を、内積+完備性で乗り越えた瞬間です。 最小化列が直接コーシー列になり、コンパクト性なしで収束先が捕まえられます。
直交補空間と直和分解
射影定理は、空間を「 とそれに直交する部分」にきれいに分ける分解を生みます。
定義 直交補空間・直交直和
を の直交補空間という。 が閉部分空間なら
任意のベクトルが「 成分」と「 に垂直な成分」に一意に分かれる。射影 は (一度射影すれば もう動かない)で の有界作用素。この直和分解が、次章のフーリエ展開(正規直交系への射影)と、 第6章のリースの表現定理の土台になります。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- 射影定理には が閉であることが必要。 閉でない部分空間だと最良近似が存在しないことがある(極限が はみ出す)。無限次元では「部分空間が閉か」を必ず確認する。
- 最良近似の特徴づけは「誤差が直交」。 最小性を直接示すより、 を確かめる方が実用的。計算では こちらを使う。
- 内積が入るのは平行四辺形則を満たすノルムだけ。 は OK、 はダメ。だから「ヒルベルト」は 「バナッハ」より真に強い。
- は線形かつ 。 射影は冪等。一度垂線を下ろせば、もう一度下ろしても同じ点。
この章のまとめ
- ヒルベルト空間=内積をもつ完備空間。長さに加え角度・直交が測れる。 が代表。内積の判定は平行四辺形則( だけ)。
- 射影定理:閉部分空間 への最良近似は直交射影 で一意に存在し、誤差 が に直交。証明は平行四辺形則+完備性(最小化列がコーシー列に)。
- 直交補空間により と一意分解。 は の有界作用素。
- 次章では、この射影を正規直交系に対して行い、フーリエ展開・ベッセルの不等式・パーセバルの等式を導きます。
次章では、正規直交系への直交射影としてフーリエ展開を捉え、ベッセルの不等式とパーセバルの等式を証明します。