⟐ 数学の作り方 How to make Mathematics

↑ ↓ 移動 Enter 開く Esc 閉じる

第6章 BCH公式と局所同相

積のずれは、括弧で書ける

前章で eX+Y≠eXeYe^{X+Y}\ne e^Xe^Y(X,YX,Y が非可換なら)と注意しました。では exp⁡(X)exp⁡(Y)\exp(X)\exp(Y) は何に等しいのか。 exp⁡(Z)\exp(Z) の形に書くなら、ZZ は何か。驚くべきことに、ZZ は X,YX,Y とリー括弧だけで書けます——足し算と 交換子 [⋅,⋅][\cdot,\cdot] の繰り返しで。これがベイカー–キャンベル–ハウスドルフ(BCH)公式です。

この事実の意味は重大です。「群の積」という曲がった非可換な演算が、「リー環の括弧」という有限次元の代数 データだけで復元できる。第4章で予告した「リー環が群をほぼ決める」の、計算レベルでの裏づけです。

BCH公式:exp⁡Xexp⁡Y=exp⁡(X+Y+12[X,Y]+⋯ )\exp X\exp Y=\exp(X+Y+\frac12[X,Y]+\cdots)。群の積が、リー括弧だけで書ける。

BCH公式

定理 ベイカー–キャンベル–ハウスドルフの公式

X,YX,Y が十分小さいとき、exp⁡(X)exp⁡(Y)=exp⁡(Z)\exp(X)\exp(Y)=\exp(Z) となる ZZ は

Z=X+Y+12[X,Y]+112([X,[X,Y]]+[Y,[Y,X]])+⋯Z=X+Y+\frac12[X,Y]+\frac1{12}\big([X,[X,Y]]+[Y,[Y,X]]\big)+\cdots

と、X,YX,Y の繰り返しリー括弧だけで表せる(高次項もすべて括弧の入れ子)。

一次の項 X+YX+Y は「可換なら指数法則どおり」。二次の項 12[X,Y]\frac12[X,Y] が、非可換性の最初の補正——積の順序の ずれが、ちょうどリー括弧で測られる(第4章のデモの θ2[X,Y]\theta^2[X,Y] と同じ精神)。以降の項もすべて [X,[X,Y]][X,[X,Y]] のような括弧の入れ子で、X,YX,Y の“普通の積”は一切現れません。

注意 なぜ括弧だけで書けるのが驚きか

exp⁡Xexp⁡Y\exp X\exp Y を素朴に級数で掛けると XY,YX,X2Y,…XY,YX,X^2Y,\dots と、リー環の外に出る積が山ほど出る。ところが exp⁡(⋅)\exp(\cdot) の中にまとめ直すと、それらがすべて交換子に組み替わり、リー環 g\mathfrak g の中に収まる。 つまり「群の積の情報は、リー環の括弧構造だけに宿っている」。リー環というたった dim⁡G\dim G 次元の代数データが、 無限次元的に見える群の積を完全に符号化する——リー理論が“うまくいく”核心。

exp は局所同相——群に座標を与える

指数写像のもう一つの基本性質。exp⁡\exp は単位元の近くで全単射(微分同相)。だから、リー環(平らな ベクトル空間)が、単位元近傍の座標になります。曲がった群を、平らなリー環の言葉で局所的に扱える。

定理 exp は局所微分同相

exp⁡:g→G\exp:\mathfrak g\to G の 00 での微分は恒等写像 idg\mathrm{id}_{\mathfrak g}。よって逆関数定理により、 exp⁡\exp は 0∈g0\in\mathfrak g の近傍から e∈Ge\in G の近傍への微分同相。g\mathfrak g が単位元近傍の座標 (正準座標)を与える。

証明

exp⁡(tX)\exp(tX) の t=0t=0 での微分が XX(前章)だから、d(exp⁡)0=idd(\exp)_0=\mathrm{id}。可逆なので逆関数定理が適用でき、 局所微分同相。∎

この局所同相と均質性(第1章)を組み合わせると、群のどの点の近傍もリー環で座標づけできます(gg の近傍は gexp⁡(g の近傍)g\exp(\mathfrak g\text{ の近傍}))。群全体が、リー環という一つの平らな空間の“貼り合わせ”で覆える。 BCH公式(積が括弧で書ける)と局所同相(座標が入る)が合わさって、リー群の局所構造はリー環に完全に 帰着します。

注意 exp は大域的には全射・単射とは限らない

局所同相は「単位元の近く」の話。大域では崩れる。SO(2)\mathrm{SO}(2) で exp⁡\exp は周期的(全射だが単射でない、 前章)。非コンパクトな SL2(R)\mathrm{SL}_2(\mathbb R) では exp⁡\exp は全射ですらない(届かない元がある)。 一方、コンパクト連結群では exp⁡\exp は全射。「exp がどこまで届くか」は群の大域的な形(連結性・コンパクト性)で 決まる——局所(リー環)と大域(群)のギャップが、ここに現れる。

つまずきポイント

注意 よくある誤解

  • BCH は「積が括弧だけで書ける」。 exp⁡Xexp⁡Y=exp⁡Z\exp X\exp Y=\exp Z の ZZ が X,YX,Y の交換子の組合せ。普通の積 XYXY は 最終形に現れない。リー環の中で閉じる。
  • 一次は X+YX+Y、二次が 12[X,Y]\frac12[X,Y]。 可換なら指数法則、非可換のずれが括弧。高次も全部括弧。
  • exp は局所同相であって大域同相でない。 単位元の近くで座標を与えるが、遠くでは周期性や非全射が起きる。 局所と大域を混同しない。
  • exp の全射性は群による。 コンパクト連結なら全射、SL2(R)\mathrm{SL}_2(\mathbb R) では非全射。リー環だけからは 大域は決まらない。

この章のまとめ

  • BCH公式 exp⁡Xexp⁡Y=exp⁡(X+Y+12[X,Y]+⋯ )\exp X\exp Y=\exp(X+Y+\frac12[X,Y]+\cdots):群の積がリー括弧だけで書ける。非可換性の補正はすべて交換子。リー環が群の積を完全に符号化する。
  • exp は局所微分同相(d(exp⁡)0=idd(\exp)_0=\mathrm{id}、逆関数定理)。リー環が単位元近傍の正準座標を与え、均質性と合わせて群の局所構造がリー環に帰着。
  • ただし局所の話。大域では周期性(SO(2)\mathrm{SO}(2))や非全射(SL2R\mathrm{SL}_2\mathbb R)が起き、exp の届く範囲は群の連結性・コンパクト性で決まる。
  • 局所ではリー環が群を決める。次章では、これを定理として述べる——リー群–リー環対応、そして準同型がリー環のレベルで決まることを見ます。

次章では、リー環が(連結・単連結なら)リー群を決めること、リー群の準同型がリー環の準同型に対応することを扱います。