第6章 BCH公式と局所同相
積のずれは、括弧で書ける
前章で ( が非可換なら)と注意しました。では は何に等しいのか。 の形に書くなら、 は何か。驚くべきことに、 は とリー括弧だけで書けます——足し算と 交換子 の繰り返しで。これがベイカー–キャンベル–ハウスドルフ(BCH)公式です。
この事実の意味は重大です。「群の積」という曲がった非可換な演算が、「リー環の括弧」という有限次元の代数 データだけで復元できる。第4章で予告した「リー環が群をほぼ決める」の、計算レベルでの裏づけです。
BCH公式:。群の積が、リー括弧だけで書ける。
BCH公式
定理 ベイカー–キャンベル–ハウスドルフの公式
が十分小さいとき、 となる は
と、 の繰り返しリー括弧だけで表せる(高次項もすべて括弧の入れ子)。
一次の項 は「可換なら指数法則どおり」。二次の項 が、非可換性の最初の補正——積の順序の ずれが、ちょうどリー括弧で測られる(第4章のデモの と同じ精神)。以降の項もすべて のような括弧の入れ子で、 の“普通の積”は一切現れません。
注意 なぜ括弧だけで書けるのが驚きか
を素朴に級数で掛けると と、リー環の外に出る積が山ほど出る。ところが の中にまとめ直すと、それらがすべて交換子に組み替わり、リー環 の中に収まる。 つまり「群の積の情報は、リー環の括弧構造だけに宿っている」。リー環というたった 次元の代数データが、 無限次元的に見える群の積を完全に符号化する——リー理論が“うまくいく”核心。
exp は局所同相——群に座標を与える
指数写像のもう一つの基本性質。 は単位元の近くで全単射(微分同相)。だから、リー環(平らな ベクトル空間)が、単位元近傍の座標になります。曲がった群を、平らなリー環の言葉で局所的に扱える。
定理 exp は局所微分同相
の での微分は恒等写像 。よって逆関数定理により、 は の近傍から の近傍への微分同相。 が単位元近傍の座標 (正準座標)を与える。
証明
の での微分が (前章)だから、。可逆なので逆関数定理が適用でき、 局所微分同相。∎
この局所同相と均質性(第1章)を組み合わせると、群のどの点の近傍もリー環で座標づけできます( の近傍は )。群全体が、リー環という一つの平らな空間の“貼り合わせ”で覆える。 BCH公式(積が括弧で書ける)と局所同相(座標が入る)が合わさって、リー群の局所構造はリー環に完全に 帰着します。
注意 exp は大域的には全射・単射とは限らない
局所同相は「単位元の近く」の話。大域では崩れる。 で は周期的(全射だが単射でない、 前章)。非コンパクトな では は全射ですらない(届かない元がある)。 一方、コンパクト連結群では は全射。「exp がどこまで届くか」は群の大域的な形(連結性・コンパクト性)で 決まる——局所(リー環)と大域(群)のギャップが、ここに現れる。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- BCH は「積が括弧だけで書ける」。 の が の交換子の組合せ。普通の積 は 最終形に現れない。リー環の中で閉じる。
- 一次は 、二次が 。 可換なら指数法則、非可換のずれが括弧。高次も全部括弧。
- exp は局所同相であって大域同相でない。 単位元の近くで座標を与えるが、遠くでは周期性や非全射が起きる。 局所と大域を混同しない。
- exp の全射性は群による。 コンパクト連結なら全射、 では非全射。リー環だけからは 大域は決まらない。
この章のまとめ
- BCH公式 :群の積がリー括弧だけで書ける。非可換性の補正はすべて交換子。リー環が群の積を完全に符号化する。
- exp は局所微分同相(、逆関数定理)。リー環が単位元近傍の正準座標を与え、均質性と合わせて群の局所構造がリー環に帰着。
- ただし局所の話。大域では周期性()や非全射()が起き、exp の届く範囲は群の連結性・コンパクト性で決まる。
- 局所ではリー環が群を決める。次章では、これを定理として述べる——リー群–リー環対応、そして準同型がリー環のレベルで決まることを見ます。
次章では、リー環が(連結・単連結なら)リー群を決めること、リー群の準同型がリー環の準同型に対応することを扱います。