数学の作り方 How to make Mathematics

第11章 随伴作用素とスペクトル定理

内積と“仲の良い”作用素を選び抜く

第8章で「対角化できる行列とできない行列がある」と学びました。では、どんな作用素なら 必ず・しかも一番きれいに対角化できるのか? 内積(第10章)を手に入れた今、その決定版が言えます。

鍵は、内積を通して作用素に定まる相棒——随伴作用素です。「自分の随伴と等しい(対称・エルミート)」 「随伴が逆になる(ユニタリ・直交)」といった、内積と相性のよい作用素は、 正規直交基底で対角化できる。しかも固有ベクトルが直交する。これがスペクトル定理で、 線形代数の美しさが最高潮に達する定理です。実対称行列がいつも直交行列で対角化できるのも、 すべてここから出ます。

内積が定める「随伴」で作用素を分類する。正規なものは正規直交基底で対角化できる——スペクトル定理。

随伴作用素

定義 随伴作用素

作用素 AA に対し、すべての u,v\mathbf u,\mathbf vAu,v=u,Av\langle A\mathbf u,\mathbf v\rangle=\langle\mathbf u,A^*\mathbf v\rangle を満たす AA^*随伴作用素という。正規直交基底での表現行列は、 A=AA^*=\overline{A}^{\top}(複素)/AA^{\top}(実)=転置(共役転置)

「内積の中で、AA を左から右へ移すと AA^* になる」。第5章の転置写像を、内積で測り直したものが 随伴です。この AA^* との関係で、作用素を分類します。

定義 作用素の分類

  • エルミート(実なら対称):A=AA^*=A。固有値は実。
  • ユニタリ(実なら直交):A=A1A^*=A^{-1}。長さと角度を保つ(Av=v\|A\mathbf v\|=\|\mathbf v\|)。固有値は絶対値 11
  • 正規AA=AAA^*A=AA^*AAAA^* が可換)。上の2つを含む最も広いクラス。

直交行列は「回転・鏡映」、対称行列は「伸縮(ひずみ)」——物理的にもなじみ深い作用素です。 そしてこれら全部に共通する性質が「正規(AA と随伴が可換)」で、これがスペクトル定理の条件になります。

スペクトル定理

定理 スペクトル定理(複素・正規行列)

複素行列 AA について、次は同値:

  1. AA は正規(AA=AAA^*A=AA^*)。
  2. AAユニタリ行列で対角化できる(固有ベクトルからなる正規直交基底が存在)。 すなわち UAU=DU^*AU=DUU ユニタリ、DD 対角)。

第8章の対角化は「PP が正則でありさえすればよい」でしたが、ここでは PPユニタリ(=正規直交基底) に格上げできる、というのがご褒美です。固有ベクトルが直交するので、P1P^{-1} が転置一発で書け、 分解が数値的にも安定します。第8章の可換⇒同時対角化の精密版とも言えます。

定理 実対称行列の直交対角化

実対称行列 AAA=AA^\top=A)は、実の直交行列で対角化できるQAQ=DQ^\top AQ=DQQ 直交、DD 実対角)。 固有値はすべて実で、異なる固有値の固有ベクトルは直交する。

これが応用上いちばん使う形です。実対称行列は必ず、実の固有値と直交する固有ベクトルを持ち、 きれいに対角化できる。第9章のジョルダン細胞のような“崩れ”は、対称行列では決して起きません。 共分散行列(統計・主成分分析)やヘッセ行列(→微分積分学 第10章の極値判定)が 対称なのは、この定理があるからこそ扱いやすい。伏線がここで回収されます。

特異値分解:正方行列でなくても

対称でも正方でもない一般の行列にも、スペクトル定理の恩恵を及ぼす分解があります。

定理 特異値分解(SVD)

任意の m×nm\times n 実(複素)行列 AAA=UΣV(U,V は直交/ユニタリ, Σ は非負対角)A=U\Sigma V^{\top}\quad(U,V\ \text{は直交/ユニタリ},\ \Sigma\ \text{は非負対角}) と分解できる。Σ\Sigma の対角成分 σi0\sigma_i\ge0特異値といい、AAA^\top A(対称・半正定値)の 固有値の平方根に等しい。

意味は「どんな線形写像も、回転 → 各軸で伸縮 → 回転の3段に分解できる」。固有値分解が正方・ 対角化可能に限られたのに対し、SVD はあらゆる行列に使えます。データ圧縮(大きい特異値だけ残す 低ランク近似)、擬似逆行列、主成分分析、推薦システム——現代の応用数学で最も使われる分解の一つです。 第10章の直交射影・最小二乗も、SVD の言葉で統一的に説明できます。

つまずきポイント

注意 よくある誤解

  • 対称行列でなくても対角化できることはある(第8章)。だが「直交行列で・固有ベクトルが直交して」対角化できるのは正規行列に限る。普通の対角化とスペクトル定理を区別する。
  • ユニタリ/直交は「長さを保つ」。 回転・鏡映がその実体。固有値の絶対値が 11
  • 特異値は固有値ではない(非負・AAA^\top A 由来)。正方でない行列に固有値は無いが、特異値は常にある。

この章のまとめ

  • 内積が定める随伴 AA^*(=共役転置)で作用素を分類:エルミート/対称(A=AA^*=A)、ユニタリ/直交(A=A1A^*=A^{-1})、正規(可換)。
  • スペクトル定理:正規行列はユニタリで対角化でき、固有ベクトルが正規直交。実対称行列は実の直交行列で対角化でき、崩れ(ジョルダン細胞)が起きない。
  • 特異値分解はあらゆる行列を「回転→伸縮→回転」に分解し、低ランク近似・最小二乗・主成分分析の土台になる。

最終章は、対称行列と表裏一体の二次形式——正定値・慣性法則・同時対角化を扱い、微積分の極値判定へ橋を架けます。