第8章 ヤコビ場
曲率が測地線の広がりを決める
前章までで「曲率が体積の縮みを支配する」と繰り返し予告してきました。それを精密に記述するのがヤコビ場です。 問いはこうです——一点から少し方向を変えて出発した二本の測地線は、進むにつれて近づくのか、離れるのか。 その隔たりの変化を、曲率が直接支配します。
これは比較幾何(第9〜11章)の心臓です。「正曲率だと測地線が寄り集まる」「負曲率だと指数的に離れる」という 直感を、 という一本の方程式が数式にする。この方程式が、正曲率空間の有限性(ボンネ–マイヤー)も、 負曲率空間の単純さ(カルタン–アダマール)も生みます。
ヤコビ場=近接測地線の隔たり。ヤコビ方程式 に従い、曲率が測地線の収束(正)・発散(負)を決める。
ヤコビ場とヤコビ方程式
測地線をなめらかに変形した「測地線の族」を考え、その変分ベクトル場を追います。
定義 ヤコビ場
測地線 の族 (各 で測地線)の変分ベクトル場 を ヤコビ場という。 はヤコビ方程式
をみたす。 は「近くの測地線が、基準の測地線からどれだけ離れているか」を表す。
定理 断面曲率一定なら J''+KJ=0
に沿って断面曲率が定数 のとき、 に直交するヤコビ場の大きさ は
をみたす( は 微分)。(一点から出る場合)の解は
このヤコビ方程式は、微分方程式で解いた単振動 そのもの。曲率 が 「復元力」の役目をします。 なら振動解 ——測地線が引き戻され収束する。 なら双曲関数 ——指数的に発散する。 なら線形 ——一定の割合で広がる。下で体感しましょう。
断面曲率 を動かすと、一点から出た近接測地線の隔たり の運命が三通りに分かれます。 では 測地線が収束し、 で再び交わる——共役点。 では線形に広がり、 では指数的に開いて 二度と交わらない。曲率という局所量が、測地線の大域的な振る舞いを完全に支配しているのが見えます。
共役点——測地線が最短でなくなる場所
で現れた「測地線が再び交わる点」が共役点です。ここが、測地線が最短経路であることをやめる境界になります。
定義 共役点
測地線 上の点 が の共役点であるとは、 となる 自明でないヤコビ場 が存在すること。「無限小に近い測地線が、 で再び出会う」。
定理 共役点の先で測地線は最短でない
測地線 が の共役点 を通り過ぎると、 は でもはや最短経路では ない(より短い道が存在する)。
球面で、北極から出た経線たちが南極(共役点)で再会するのを思い出してください。南極までは各経線が最短ですが、 南極を過ぎると「反対回りの方が近い」——最短性が失われる。正曲率が測地線を引き戻し、共役点を作り、そこで 最短性を壊す。この連鎖が、次章以降の比較定理を駆動します。
注意 曲率の符号 → 測地線の運命 → 空間の形(比較定理の予告)
- (正):共役点が現れる( 以内)→ 測地線が短くなる → 空間の直径が有界(第10章 ボンネ–マイヤー)。球のように閉じる。
- (非正): か で単調増加、共役点が決してない → 測地線はずっと最短 → が 大域微分同相(第11章カルタン–アダマール)。双曲空間のように開いて広がる。 ヤコビ方程式 の解の振る舞い(振動 vs 発散)が、そのまま空間の大域的な形を決める。これが 比較幾何の全体像。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- ヤコビ場は「近接測地線の隔たり」。 測地線の族の変分。ヤコビ方程式 で曲率が復元力になる。定曲率で 。
- 正曲率で収束(共役点)、負曲率で発散。 vs 。 が振動/発散を切り替える。 は線形。
- 共役点の先で最短性が失われる。 共役点までは最短、その先は別の道が短い(球の南極)。「測地線=最短」が 破れる境界。
- 共役点は では存在しない。 は に戻らない。だから非正曲率では測地線がずっと最短 (第11章)。
この章のまとめ
- ヤコビ場 =近接測地線の隔たり。ヤコビ方程式 、定曲率で 。曲率が「復元力」で、 は (収束)、 は (線形)、 は (指数発散)。
- 共役点()=近接測地線が再会する点。 では 以内に現れ、その先で測地線は最短でなくなる(球の南極)。 では共役点なし。
- 曲率の符号 → 測地線の収束/発散 → 空間の大域的な形、という因果(比較定理の心臓)。
- Part II(曲率)はここまで。次章から大域幾何へ。まず「測地線がどこまでも伸びる」完備性と、最短測地線の存在を保証するホップ–リノウの定理を扱います。
次章では、距離完備と測地完備が同値であること(ホップ–リノウの定理)と、完備なら任意の二点が最短測地線で結ばれることを見ます。