数学の作り方 How to make Mathematics

第9章 完備性とホップ–リノウの定理

「穴のない」空間で幾何をする

第3章で「測地線は局所的に最短」、第8章で「共役点の先で最短性が失われる」と見ました。では大域的に、 任意の二点は最短の測地線で結べるのか。これは自明ではありません。たとえば平面から一点を抜いた R2{0}\mathbb R^2\setminus\{0\} では、原点をはさんだ二点を結ぶ最短測地線が存在しない(原点の“穴”を避けねばならない)。

この“穴”を排除する条件が完備性です。しかも、完備性には二つの顔——「測地線がどこまでも伸びる」(測地完備)と 「距離空間としてコーシー列が収束する」(距離完備、集合と位相)——があり、それらが同値で、 さらに「最短測地線の存在」まで導く。これがホップ–リノウの定理、大域リーマン幾何の出発点です。

ホップ–リノウ:測地完備=距離完備。しかも完備なら任意の二点が最短測地線で結ばれる。大域幾何の土台。

二つの完備性

定義 測地完備・距離完備

リーマン多様体 (M,g)(M,g)

  • 測地完備:すべての測地線がすべての実数 tt に対して定義できる(どこまでも伸ばせる、有限時間で “端”に達しない)。同値に、expp\exp_pTpMT_pM 全体で定義される。
  • 距離完備:距離 dd第1章)に関してコーシー列が収束する (距離空間として完備)。

測地完備は「動的」——測地線という運動が永遠に続けられる。距離完備は「静的」——距離空間に穴がない (集合と位相の完備性)。一見別の概念が、リーマン計量のもとでは一致します。

ホップ–リノウの定理

定理 ホップ–リノウの定理

連結リーマン多様体 (M,g)(M,g) について、次は同値:

  1. MM測地完備
  2. MM距離完備
  3. ある一点 ppexpp\exp_pTpMT_pM 全体で定義される。
  4. MM有界閉集合はコンパクト(ハイネ–ボレル性)。

さらに、これらが成り立つとき、任意の二点 p,qp,q は長さ d(p,q)d(p,q) の最短測地線で結ばれる

証明

核心(最短測地線の存在)pp を固定し、qq へ向かう。pp 中心の小さな測地球面上で qq に最も近い点 x0x_0 を とる(球面はコンパクトなので最小が存在)。x0x_0 を通る pp からの放射測地線 γ\gamma を、測地完備性で qq まで 伸ばす。「γ\gamma に沿って進むと qq への距離がちょうど進んだ分だけ減る」ことを、ガウスの補題 (第4章)と距離の三角不等式で示すと、γ\gamma が長さ d(p,q)d(p,q) の最短測地線になる。 同値性 (1)⟺(2) は、コーシー列の極限を測地線の延長として捕まえることで示す。∎

証明の心臓は「測地球面上で qq に最も近い点を選び、そこへの放射測地線を伸ばすと、それが最短になる」。 球面のコンパクト性(最小値の存在)と、測地完備性(測地線を qq まで伸ばせる)と、ガウスの補題(放射測地線が 最短方向)が組み合わさります。第4章までに築いた道具が、大域的な最短測地線の存在という果実を結びます。

完備・不完備の例

  • コンパクト多様体(球面・トーラス)は必ず完備(有界閉=全体でコンパクト)。閉じた宇宙には穴がない。
  • ユークリッド空間・双曲空間は完備(非コンパクトだが穴がない)。
  • R2{0}\mathbb R^2\setminus\{0\} は不完備(原点へ向かう測地線が有限時間で“落ちる”)。開円板も不完備。
  • コンパクトなら常に完備なので、閉じた空間の大域幾何ではホップ–リノウが無条件で使える。

完備性が大域幾何を可能にする

ホップ–リノウは、これ以降の比較定理(第10・11章)の前提です。「任意の二点が最短測地線で結ばれる」が なければ、曲率と距離の議論が回りません。完備性は、局所の幾何(測地線・曲率)を大域の幾何(直径・体積・位相)へ 橋渡しする鍵です。

注意 完備性は「大域を語る資格」

局所的な性質(測地線・曲率・ヤコビ場)は完備性なしでも定義できる。だが「空間全体の直径」「二点間の最短距離」 「空間の位相型」といった大域的な主張には、測地線が全体を隅々まで結ぶ完備性が要る。第10章ボンネ–マイヤー (正曲率 → 直径有界 → コンパクト)も第11章カルタン–アダマール(非正曲率 → expp\exp_p が大域微分同相 → Rn\mathbb R^n に微分同相)も、まず完備性を仮定する。「曲率という局所情報から空間の形という大域結論へ」——その橋が 完備性。次章から、その橋を渡る。

つまずきポイント

注意 よくある誤解

  • 測地完備と距離完備は同値(ホップ–リノウ)。 「測地線が永遠に伸びる」=「距離空間として穴がない」。 リーマン計量のもとで一致する非自明な定理。
  • 完備 ⇒ 最短測地線が存在。 任意の二点が長さ d(p,q)d(p,q) の測地線で結ばれる。不完備(穴あき平面)では存在 しないことがある。
  • 完備 ≠ コンパクト。 ユークリッド・双曲空間は完備だが非コンパクト。コンパクトなら必ず完備(逆は偽)。
  • 最短測地線は一意とは限らない。 球の対蹠点は無数の最短測地線(経線)で結ばれる。存在は保証、一意性は 曲率による(第11章で非正曲率なら一意)。

この章のまとめ

  • 完備性の二つの顔——測地完備(測地線がどこまでも伸びる、expp\exp_p が全域定義)と距離完備(コーシー列が収束)——は同値(ホップ–リノウ)。有界閉集合がコンパクト、とも同値。
  • 完備なら任意の二点が長さ d(p,q)d(p,q) の最短測地線で結ばれる。証明は測地球面上の最近点+放射測地線の延長+ガウスの補題。
  • コンパクト ⇒ 完備(球面・トーラス)。穴あき平面は不完備。完備性は局所の幾何を大域へ橋渡しする、比較定理の前提。
  • 完備性という土台の上で、いよいよ曲率が空間の形を決める。次章では、正曲率が空間を有限に閉じ込めるボンネ–マイヤーの定理を証明します。

次章では、リッチ曲率が正の下界をもつ完備多様体が有界・コンパクトになること(ボンネ–マイヤーの定理)を、ヤコビ場を使って証明します。