第2章 イデアルと剰余環
環を「割る」には、掛け算を吸い込む部分集合が要る
群論で、剰余群 G/N を作るには N が正規部分群でなければなりませんでした。
環でも同じ問題が起きます。Z を modn で割って Zn を作ったように、環 R を部分集合で割って
剰余環を作りたい。整数を「n の倍数を無視する」ことで丸めたわけですが、この「n の倍数全体 nZ」には
特別な性質があります——環のどんな元を掛けても、n の倍数のまま(nZ の外に出ない)。
この「掛け算で吸い込む」性質をもつ部分集合がイデアルです。イデアルは、剰余環を作る(第2章)だけでなく、
素イデアル・極大イデアル(第4章)を通じて環の構造を解剖し、代数幾何では図形そのものに
対応する——環論で最も重要な概念です。部分環(第1章、1 を含む小さい環)とは別物なので注意しましょう。
イデアル = 加法で閉じ、環の任意の元を掛けても外に出ない(吸い込む)部分集合。剰余環を作るための「割る集合」。
イデアルの定義
定義 イデアル
環 R の部分集合 I が左イデアルとは、(I,+) が部分群で、かつ r∈R,a∈I⇒ra∈I(左から吸い込む)。
右から吸い込む(ar∈I)なら右イデアル、両方なら両側イデアル(単にイデアル I⊴R)。
可換環では左右の区別が無いので、単にイデアルという。
「ra∈I」がイデアルの心臓です。部分環は 1 を含みますが、イデアルが 1 を含むと r=r⋅1∈I で
I=R になってしまう。だから真のイデアルは 1 を含まない——ここが部分環との決定的な違いです。
非可換環では左右の区別が重要で(非可換環・リー環)、剰余環を作れるのは両側イデアルだけです。
例 イデアルの例
- nZ={nk:k∈Z} は Z のイデアル(Z のイデアルはすべてこの形、第7章)。
- 多項式環 R[x] で、定数項が 0 の多項式全体 (x)={xf(x)}。
- 環 R 全体、および {0}(自明なイデアル)。
- 体 K のイデアルは {0} と K のみ(0 以外は単元で吸い込むと全体になる)。
最後の例は重要です。体はイデアルが自明なものしかない——この性質が第4章で「極大イデアル ↔ 体」を生みます。
生成されるイデアル
与えられた元を含む最小のイデアルを作ります。
定義 生成されるイデアル・単項イデアル
a1,…,an∈R(可換環)が生成するイデアル
(a1,…,an)={r1a1+⋯+rnan:ri∈R}
は ai をすべて含む最小のイデアル。一元生成 (a)=Ra={ra:r∈R} を単項イデアルという。
(a) は「a の倍数全体」。Z では (n)=nZ、(6)⊆(2)(6 は 2 の倍数)——包含関係が整除を表す:
(a)⊆(b)⟺b∣a。イデアルの言葉は割り算の言葉なのです。すべてのイデアルが単項な整域が
**単項イデアル整域(PID)**で、第7章の主役になります。
イデアルの操作
イデアルどうしを組み合わせて新しいイデアルを作ります。
定義 和・積・共通部分
イデアル I,J に対し:
和 I+J={a+b:a∈I,b∈J}(I,J を含む最小のイデアル)。
積 IJ={∑aibi:ai∈I,bi∈J}(有限和)。
共通部分 I∩J。いずれもイデアルで、IJ⊆I∩J⊆I+J。
Z で確かめると直感が湧きます:(m)+(n)=(gcd(m,n))(和は最大公約数)、(m)∩(n)=(lcm(m,n))
(共通部分は最小公倍数)、(m)(n)=(mn)。イデアルの代数が、整数の gcd・lcm の代数そのものになっています。
「和が gcd」なのは、gcd(m,n) が m,n の整数係数結合 mx+ny で書ける(ベズー)ことの反映です。
剰余環
いよいよ環を割ります。イデアルの「吸い込む」性質が、剰余環の積を well-defined にします。
定理 剰余環
イデアル I⊴R に対し、剰余類 R/I={a+I:a∈R} は
(a+I)+(b+I)=(a+b)+I,(a+I)(b+I)=ab+I
で環になる(剰余環・商環)。零元 0+I=I、単位元 1+I。
証明
加法は (R,+) をアーベル部分群 (I,+) で割る剰余群(群論)。乗法のwell-definedを示す:
a+I=a′+I, b+I=b′+I なら a′=a+s, b′=b+t (s,t∈I)。a′b′=(a+s)(b+t)=ab+at+sb+st。
at,sb,st はイデアルの吸い込み性より I に属す(at∈I:t∈I を a 倍。sb∈I:s∈I を b 倍。st∈I)。
ゆえに a′b′∈ab+I、すなわち a′b′+I=ab+I。分配法則等は R から継承。∎
∎
証明でイデアルの吸い込み性 at,sb∈I がまさに well-defined 性のために使われているのが要点です。
これが群の正規部分群と完全に平行な役割です(正規性が well-defined を保証したのと同じ)。
例 剰余環の例
- Z/nZ=Z/(n):modn の世界。第1章の Zn はこれ。
- R[x]/(x2+1)≅C:x2+1=0 すなわち x2=−1 を課すと、x が虚数単位 i になり複素数体が現れる。
- K[x]/(f(x)):多項式 f を「0 とみなす」世界。f が既約なら体になる(体論の体の拡大の作り方)。
R[x]/(x2+1)≅C は美しい例です。「x2+1 を割る」だけで複素数が構成できる——多項式を割って新しい数の体系を
作るこの操作が、体の拡大の基本手法になります。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- イデアルは部分環ではない。 真のイデアルは 1 を含まない(含むと全体になる)。部分環は 1 を含む。両者は別概念。
- 剰余環が作れるのは両側イデアルだけ。 可換環なら常に OK だが、非可換環では左(右)イデアルでは積が well-defined にならない。
- (a)⊆(b)⟺b∣a(包含が逆)。 「大きい倍数のイデアルは小さい」。(6)⊆(2)。イデアルの包含は整除の言葉。
- 和が gcd、積は積、共通部分が lcm(Z の場合)。IJ⊆I∩J は一般に真だが等号は互いに素なときなど(次章の CRT)。
この章のまとめ
- イデアルは加法で閉じ、環の任意の元を掛けても吸い込む部分集合(可換環では左右同じ)。真のイデアルは 1 を含まない。部分環とは別物。
- 生成イデアル (a1,…,an)、単項イデアル (a)=「a の倍数」。包含は整除を表す。和・積・共通部分は Z で gcd・積・lcm に対応。
- イデアル I(両側)で剰余環 R/I が作れる(吸い込み性が積の well-defined を保証)。Z/(n)、R[x]/(x2+1)≅C など、割ることで新しい環・体を生む。
次章は、環どうしの構造を保つ写像——環準同型と同型定理を扱い、イデアルと核の対応を確立します。