第12章 スペクトル理論
「対角化」を無限次元でやり直す
線形代数の総仕上げは、行列の対角化——固有値と固有ベクトルで空間を分解することでした。 対称行列は正規直交な固有ベクトルで完全に対角化できた。関数解析の総仕上げも同じです。無限次元の作用素を 「対角化」して、その構造を丸裸にする。これがスペクトル理論で、量子力学の数学的基礎そのものです。
ところが無限次元では、固有値だけでは足りません。可逆性が崩れる原因が、固有値以外にもあるのです。まず 「スペクトル」を、固有値より広い概念として定義し直します。
定義 レゾルベントとスペクトル
バナッハ空間上の有界作用素 に対し、 が可逆(有界逆をもつ)となる の全体を レゾルベント集合、その補集合をスペクトル という。 は次に分かれる:
- 点スペクトル: が単射でない( は固有値、固有ベクトルあり)。
- 連続・剰余スペクトル:単射だが全射でない等——固有ベクトルなしにスペクトルに入る。
有限次元では「 非可逆 が固有値」でした(単射⇔全射だから)。無限次元ではこの同値が 崩れます。固有値でないのにスペクトルに属する がある——これが無限次元の新しさです。
例 固有値をもたないスペクトル
上の掛け算作用素 。 は で、 なら 単射( a.e. なら )だが が非有界で逆が有界にならない。ゆえに だが固有値は一つもない(連続スペクトル)。「対角成分が連続的に詰まっている」イメージ。 有限次元にはない現象。
スペクトルは固有値より広い。無限次元では固有ベクトルなしにスペクトルへ入る がある。スペクトル=一般化された固有値。
スペクトルの基本性質
スペクトルは、ノイマン級数(第3章)のおかげで良い性質をもちます。
定理 スペクトルの性質
有界作用素 に対し、 は空でないコンパクト集合で、 に含まれる。 が自己共役なら (スペクトルは実)。
証明
なら で 、ノイマン級数 (第3章)より可逆。ゆえに (有界)。 レゾルベント集合が開(可逆作用素の全体が開)なので は閉、よってコンパクト。自己共役の実性は、 ()で より下から評価でき、 が可逆になることから。∎
「自己共役 ⇒ スペクトルが実」は、線形代数の「実対称行列の固有値は実」の無限次元版。 量子力学で観測量を自己共役作用素で表すのは、観測値(=スペクトル)が実数であってほしいからです。
コンパクト自己共役作用素のスペクトル分解
いよいよ総仕上げ。コンパクトかつ自己共役な作用素は、有限次元の対称行列とそっくりに対角化できます。 前章のコンパクト性(有限次元性の注入)と、自己共役性(実固有値・直交固有ベクトル)が合わさった、最も美しい 定理です。
定理 スペクトル分解定理(コンパクト自己共役)
をヒルベルト空間 上のコンパクト自己共役作用素とする。すると
- の固有値 はすべて実で、 にのみ集積する( 以外の固有値は有限重複度・可算個)。
- 対応する固有ベクトルからなる正規直交系 がとれ、任意の で
- は の正規直交基底( を張る)。
証明
要点のみ:自己共役性から または が固有値になる( が 達成され、その最大化ベクトルが固有ベクトル——コンパクト性で最大化列から収束部分列がとれるのが鍵)。その固有 ベクトルの直交補空間へ を制限し、同じ操作を繰り返す(各段で最大の固有値を取り出す)。得られる固有値は 単調減少で、コンパクト性より へ収束。固有ベクトルは(異なる固有値なら自動的に、同じ固有値なら選んで) 正規直交。残りが 。∎
これは有限次元のスペクトル定理(実対称行列 直交行列で対角化)の、完璧な無限次元版です。 の作用は 「各固有方向 に固有値 を掛ける」だけ——無限次元の対角行列。第5章のフーリエ展開 (正規直交基底への分解)が、ここで作用素の対角化として結実します。積分作用素のスペクトル分解は、 偏微分方程式(熱・波動方程式の固有関数展開、微分方程式)そのものです。
注意 量子力学への橋
量子力学では、状態は の単位ベクトル、観測量は自己共役作用素。観測で得られる値はそのスペクトル(実数)、 観測後の状態は対応する固有ベクトルへ“射影”される(第4章の直交射影)。エネルギー準位が離散的なのは、 ハミルトニアン(の一部)がコンパクト作用素的にふるまい、スペクトルが離散点になるから。関数解析は 量子力学の言語であり、この章の定理群がその文法。抽象的に積み上げた理論が、物理の根幹を記述する。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- スペクトル ≠ 固有値の集合(無限次元)。 固有ベクトルなしにスペクトルに入る がある(連続スペクトル、 掛け算作用素)。「 が可逆でない」が定義。
- スペクトル分解の綺麗な形はコンパクト自己共役に限る。 一般の自己共役(非コンパクト)では、和でなく 積分(スペクトル測度)による分解になる(掛け算作用素の連続スペクトル)。
- 固有値は に集積する。 コンパクト作用素の非零固有値は可算で にしか溜まれない。 自身はスペクトルに 入る(無限次元で は可逆でない)が固有値とは限らない。
- 自己共役性がスペクトルを実にする。 量子力学で観測量が自己共役なのは観測値が実数だから。数学的必然。
この章のまとめ
- スペクトル = が可逆でない 。無限次元では固有値より広く、固有ベクトルなしのスペクトル(連続スペクトル、掛け算作用素の )がある。 は空でないコンパクト集合、自己共役なら実。
- スペクトル分解定理:コンパクト自己共役作用素は と対角化でき、固有ベクトルが正規直交基底をなす。有限次元の対称行列の対角化の完璧な無限次元版。フーリエ展開・PDE の固有関数展開の源。
- 量子力学の言語:状態=単位ベクトル、観測量=自己共役作用素、観測値=スペクトル、観測=直交射影。
- 関数解析(全12章)はこれで完結。無限次元の線形代数として、ノルム・完備性・内積・双対・三大定理・作用素論を積み上げ、スペクトル分解で総仕上げしました。
- 次は 測度論(土台)・フーリエ解析(正規直交基底の応用)・偏微分方程式(発展)(作用素論の応用)へ進むと、この理論が実際に働く姿が見えます。
お疲れさまでした。関数を「点」とみなす旅は、無限次元の対角化と量子力学の扉まで辿り着きました。