第6章 リー括弧とフロベニウスの定理
2つの流れは、順番を変えても同じ場所に着くか
つのベクトル場 があり、それぞれの流れに沿って動けるとします。「まず の流れで少し、次に の流れで 少し」動いた先と、「まず 、次に 」動いた先は、同じ場所でしょうか? 平らな空間なら同じ(平行移動は可換)。 でも曲がった空間や絡み合ったベクトル場では、着く場所がずれることがあります。
このずれを測るのがリー括弧 ——それ自身が新しいベクトル場で、 つの流れの「非可換性」を捉えます。 なら流れは可換(順番を変えても同じ場所)。この括弧が、 組のベクトル場が「面(部分多様体)を 織りなすか」を判定するフロベニウスの定理の鍵になります。制御理論(到達可能性)・リー群(リー環)・ 偏微分方程式(可積分条件)で中心的な、幾何の非可換性を測る道具です。
リー括弧 は 流れの非可換性を測るベクトル場。 で流れが可換。フロベニウス:分布が可積分 括弧で閉じる。
リー括弧
ベクトル場は関数への微分作用素でした(第5章)。 つを合成した は 階微分で作用素ですが、 差 は 階の項が打ち消し合い、 階の微分作用素=ベクトル場になります。
定義 リー括弧
ベクトル場 のリー括弧 を、関数への作用 で定める。これは ( 階微分の項が消えて) 階の微分作用素=ベクトル場。チャートでは 。
リー括弧は反対称 、そしてヤコビ恒等式 を満たします。 これらはリー環の公理そのもの——ベクトル場全体は無限次元のリー環をなします。 括弧の幾何的意味は、流れの非可換性です。
定理 リー括弧と流れの可換性
の流れを とすると、 流れが可換 (すべての )。 一般に、 は「 で 、 で 、 で逆に 、 で逆に 動いたときの 次のずれ」を測る。
「 の流れで元に戻らないずれ」が 。群論の交換子 の、流れ版です。 非可換性が括弧に凝縮される。関連して、 を の流れで“引き戻して”微分するのがリー微分です。
定義 リー微分
ベクトル場 の に沿ったリー微分 。 の流れで運んだ の、時間微分。 一般のテンソル場 にも (流れによる引き戻しの微分)で拡張される。 「 の流れに沿って がどれだけ変化するか」を、接続なしで測る微分。
分布とフロベニウスの定理
各点で「接空間の一部( 次元の部分空間)」を指定したものが分布です。それが部分多様体の接空間になるか(可積分か)を、 リー括弧が判定します。
定義 分布・可積分・対合的
の各点 に の 次元部分空間 をなめらかに割り当てたものを分布という。 が 可積分とは、各点を通る 次元部分多様体(積分多様体)で、その接空間が に一致するものがあること。 が対合的(involutive)とは、 に属す任意のベクトル場 のリー括弧 も に属すこと。
「分布 が可積分」=「 の方向に張られる面(積分多様体)で、多様体が層状に葉分けされる」。それが成り立つ条件を、 フロベニウスが完全に決定しました。
定理 フロベニウスの定理
分布 が可積分 対合的(リー括弧で閉じる、)。
証明
()積分多様体があれば、 の場 は積分多様体に接し、その括弧も積分多様体に接する(積分多様体上の ベクトル場の括弧)ので 。()対合的なら、 の局所的な基底ベクトル場を「互いに括弧が になる」 座標場 にとれる(可換な流れで座標を作る)。すると 定数 が積分多様体。∎
「リー括弧で閉じる(対合的) 面に貼り合わせられる(可積分)」。 個の方向を指定したとき、それらが本当に 次元の面を織りなすには、方向どうしの非可換性(括弧)がその方向の中に収まっている必要がある——括弧が 外へはみ出すと、動き回るうちに 次元からはみ出て面にならない。フロベニウスは、この可積分性の判定を リー括弧という計算可能な条件に翻訳します。
例 フロベニウスの応用
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- リー括弧はベクトル場( 階の項が消える)。 は作用素だがベクトル場でない。差 で 階になる。非可換性の測度。
- 流れが可換。 順番を変えても同じ場所。座標場 どうしは可換()。
- フロベニウス:可積分 対合的。 分布が面になる条件が、括弧で閉じること。括弧が外へはみ出すと面にならない。
- リー微分は接続を要さない。 流れによる引き戻しの微分。共変微分(接続)とは別物。
この章のまとめ
- リー括弧 はベクトル場で、 流れの非可換性を測る( 流れが可換)。反対称+ヤコビ恒等式でリー環をなす。リー微分 。
- 分布(各点の 次元部分空間)が可積分(面に葉分け) 対合的(リー括弧で閉じる)——フロベニウスの定理。
- 応用:偏微分方程式の可積分条件、制御理論の到達可能性、接触・シンプレクティック幾何。非可換性が幾何を支配する。
次章は、多様体の上で「積分するもの」——テンソル場と微分形式を導入します。