第5章 ベクトル場と流れ
多様体の上の「風」と、それに流される点
前章で各点の接ベクトルを定義しました。多様体のすべての点に、なめらかに接ベクトルを割り当てると、 ベクトル場——多様体の上の「風」や「流れ」——になります。風速の場、電磁場、流体の速度場。そして、その風に 流されて点が動く軌跡が流れです。
これは微分方程式の幾何的な姿です。ベクトル場 が「各点で進む向き」を指定し、それに 沿って動く曲線(積分曲線)が、常微分方程式 の解。微分方程式の方向場・相図を、 曲がった多様体の上で行うのです。この章の締めくくりは、多様体論で最も有名な定理の一つ毛玉の定理—— 「球面の毛はきれいに撫でつけられない」(球面上のベクトル場は必ず零点をもつ)。そしてそれが位相幾何のオイラー 標数で完全に説明される(ポアンカレ–ホップ)——幾何と位相が出会う名場面です。
ベクトル場 = 各点の接ベクトルの場(多様体上の風)。流れは積分曲線(微分方程式の解)。毛玉の定理でベクトル場の零点が と結びつく。
ベクトル場
定義 ベクトル場
多様体 のベクトル場とは、各点 に接ベクトル をなめらかに割り当てる対応(接束 の 切断)。チャートで (成分 が のなめらかな関数)。関数 に作用して ( 方向の微分)。
ベクトル場は「各点に矢印をなめらかに生やしたもの」であり、同時に「各点で方向微分する作用素」。この風に流される 点の軌跡が、積分曲線です。
積分曲線と流れ
定義 積分曲線・流れ
ベクトル場 の積分曲線とは、(各点で速度が に一致)を満たす曲線 。 初期点 からの積分曲線を と書き、 を の流れ(フロー)という。
定理 流れの存在と1径数群
なめらかなベクトル場 の各点からの積分曲線は、局所的に一意に存在する(ピカール–リンデレフ)。 流れは1径数変換群の性質 、 をもつ。 がコンパクトなら 流れは全時間 で定義される(完備)。
証明
チャートで は の常微分方程式。 なめらかゆえリプシッツで、ピカール–リンデレフより 局所解が一意存在。 は解の一意性から( が時間に依らない自励系ゆえ、時刻をずらしても 同じ流れ)。コンパクトなら解が有限時間で境界へ逃げられず全時間存在(解の延長)。∎
「ベクトル場が生む流れ」は、微分方程式の存在定理そのものです。(時間を 足すと流れを合成)は、流れが時間による対称性の群( の作用)であることを意味します——リー群の 径数部分群につながる構造。多様体の各点が、風に乗って時間とともに流れていく。
例 流れの例
- で (回転場):積分曲線は原点中心の円、流れ は角 の回転。原点が唯一の零点。
- 球面 で「北極から南極へ流れる」場:積分曲線は経線、流れは北極から湧き出し南極へ吸い込まれる。両極が零点。
毛玉の定理とポアンカレ–ホップ
ベクトル場の零点(、流れが止まる点)は、多様体の位相と深く結びつきます。球面ではこれが劇的です。
定理 毛玉の定理
偶数次元球面 (とくに )上のなめらかなベクトル場は、必ず零点をもつ。「球面の毛をつむじなく撫でつける ことはできない」。(奇数次元 では零点のない場が作れる。)
下で体感してください。球面 にどんな接ベクトル場(毛の撫でつけ方)を与えても、上下の**極(零点)**が消えません。 場を切り替えたり回したりしても、零点は消えないのです。
なぜ消えないのか。その答えが、幾何(ベクトル場の零点)と位相(オイラー標数)を結ぶ、次の美しい定理です。
定理 ポアンカレ–ホップの定理
コンパクト多様体 上の、孤立零点をもつベクトル場について、零点の指数の総和はオイラー標数に等しい: (指数 = 零点の周りでベクトル場が原点を回る巻き数。)
では (位相幾何・オイラー標数)。だから零点の指数の和は ——零点が無ければ 和は になってしまい矛盾。ゆえ球面のベクトル場は必ず零点をもつ(毛玉の定理)。上のインタラクティブの 「湧き出し(指数 )+吸い込み(指数 )= 」がまさにこれです。一方トーラスは なので、 零点のないベクトル場(一様な流れ)が作れる——ドーナツの毛は撫でつけられる。位相不変量が、なめらかな ベクトル場の振る舞いを支配する——微分位相幾何の写像度・ガウス–ボンネへと続く、 幾何と位相の深い結びつきの原型です。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- ベクトル場=接束の切断(各点になめらかに接ベクトル)。 同時に「方向微分の作用素」。積分曲線は微分方程式の解。
- 流れは 径数群 。 時間による対称性。コンパクトなら完備(全時間定義)。
- 毛玉の定理は偶数次元球面。 は零点必須、 は零点なしの場が作れる。 の偶奇でなく が本質。
- 零点の指数の和 = (ポアンカレ–ホップ)。 幾何(零点)と位相(オイラー標数)を結ぶ。 なら零点が必ずある。
この章のまとめ
- ベクトル場は各点に接ベクトルをなめらかに割り当てる(接束の切断、多様体上の風)。その積分曲線・流れは微分方程式の解で、流れは** 径数変換群**(コンパクトなら完備)。
- 毛玉の定理:偶数次元球面のベクトル場は必ず零点をもつ。「球面の毛は撫でつけられない」。
- ポアンカレ–ホップの定理:零点の指数の和 = オイラー標数 。 が毛玉の定理を、 がトーラスの零点なし場を説明。幾何と位相の結びつき。
次章は、 つのベクトル場の“交わり方”——リー括弧とフロベニウスの定理を扱います。