第3章 期待値・分散と不等式
分布まるごとは情報が多すぎる。実用では「だいたいどこ(中心)」と「どれくらいばらつく(散らばり)」の
二つの数字がまず欲しい。それが期待値と分散です。そして本章の主役は、これらを使って
確率を上から抑える不等式——次章以降の大定理はすべて、この素朴な不等式から生まれます。
期待値 = 積分
期待値は「X の平均的な値」。離散なら「値 × その確率」を足すだけです:
E[X]=∑kxkP(X=xk)。サイコロなら (1+2+⋯+6)/6=3.5。
連続型ではどうするか。値ごとに確率を掛けて足す——これはまさに積分です。
定義 期待値
確率変数 X の期待値を、確率測度 P に関するルベーグ積分で定める:
E[X]=∫ΩX(ω)dP(ω)=∫−∞∞xdPX(x).連続型(密度 f)なら E[X]=∫−∞∞xf(x)dx、離散型なら和。E[∣X∣]<∞ のとき可積分という。
「期待値は積分」——この一言で、測度論の全財産が確率にそのまま流れ込みます。
積分の線形性がそのまま期待値の線形性 E[aX+bY]=aE[X]+bE[Y] になり、
これは X,Y が独立でなくても常に成り立つ強力な道具。極限と期待値の交換は
収束定理(単調収束・ファトゥ・優収束)がそのまま担います。
関数を通した期待値も、わざわざ g(X) の分布を求めずに計算できます(無意識の統計学者の法則):
E[g(X)]=∫−∞∞g(x)f(x)dx.
独立なら、積の期待値が期待値の積に割れます。これは前章の「独立=直積測度」にフビニの定理を
当てたもの:
X,Y 独立 ⟹ E[XY]=E[X]E[Y].
分散 = 散らばりの二乗平均
中心 μ=E[X] からの「ずれ」の大きさを測ります。ずれ X−μ はそのまま平均すると 0(正負が打ち消す)。
そこで二乗してから平均する。
定義 分散と標準偏差
Var(X)=E[(X−μ)2]=E[X2]−μ2,σ(X)=Var(X).σ を標準偏差という(X と同じ単位で散らばりを測る)。
右の等式 E[X2]−μ2 は展開して線形性を使えば出ます(計算に便利)。分散の要点は
二乗のスケールです:Var(aX)=a2Var(X)。そして独立なときの加法性——これが後で決定的に効きます。
定理 独立和の分散は足し算
X1,…,Xn が独立(無相関で十分)なら
Var(X1+⋯+Xn)=Var(X1)+⋯+Var(Xn).
証明
2 個で示せば十分。Var(X+Y)=E[(X+Y)2]−(μX+μY)2 を展開すると、交差項は
2(E[XY]−μXμY)=2Cov(X,Y)。独立なら E[XY]=μXμY で共分散 0、交差項が消える。
残りが Var(X)+Var(Y)。
∎
ここに、大数の法則の芽が隠れています。独立同分布な Xi(各分散 σ2)の平均 Xˉn=n1∑Xi を考えると、
Var(Xˉn)=n21i=1∑nVar(Xi)=n2nσ2=nσ2 n→∞ 0.
平均を取るほど散らばりが 1/n で消える。標準偏差でいえば σ/n——この「n 分の 1」が、
以後くり返し現れる確率論の基本テンポです。散らばりが消えるなら、Xˉn は中心 μ に張り付くはず。
それを「確率が小さい」と厳密に言うのが、次の不等式です。
確率を抑える四つの不等式
定理 マルコフの不等式
X≥0 と a>0 に対し
P(X≥a)≤aE[X].
証明
指示関数を使う。X≥0 なら、a⋅1{X≥a}≤X が各 ω で成り立つ
(X≥a の所では左辺 a≤X、それ以外は左辺 0≤X)。両辺の期待値(積分の単調性)を取ると
aP(X≥a)≤E[X]。a で割って完成。
∎
たったこれだけ。「平均が小さければ、大きな値は稀」という当たり前を式にしただけ。なのにこれが恐ろしく効きます。
X を (X−μ)2 に取り替えると——
定理 チェビシェフの不等式
平均 μ・分散 σ2 をもつ X と k>0 に対し
P(∣X−μ∣≥k)≤k2σ2.
証明
∣X−μ∣≥k⟺(X−μ)2≥k2。非負の (X−μ)2 にマルコフを適用(a=k2)すれば
P((X−μ)2≥k2)≤E[(X−μ)2]/k2=σ2/k2。
∎
チェビシェフは「中心から k 以上ずれる確率は、分散に比例して小さい」。分布の形を一切仮定せず、
平均と分散だけで確率を抑える万能の道具です。これを先ほどの Xˉn(分散 σ2/n)に当てれば、
P(∣Xˉn−μ∣≥k)≤σ2/(nk2)→0——これがもう大数の弱法則の証明です(第5章で仕上げます)。
残り二つは、期待値どうしの関係を縛ります。
定理 イェンセンの不等式
φ が凸関数なら φ(E[X])≤E[φ(X)]。(凹なら不等号が逆)
証明
凸関数は各点で接線の上にある:点 μ=E[X] での接線を ℓ(x)=φ(μ)+c(x−μ) とすると
φ(x)≥ℓ(x) が全 x で成り立つ。期待値を取ると、右辺は線形性で E[ℓ(X)]=φ(μ)
(E[X−μ]=0)。ゆえに E[φ(X)]≥φ(μ)。
∎
「平均してから曲げる」より「曲げてから平均する」方が大きい。φ(x)=x2 なら
E[X]2≤E[X2]、すなわち分散 ≥0 が出ます。凸性一発で多くの不等式が統一されます。
定理 コーシー–シュワルツの不等式
E[XY]≤E[X2]E[Y2].
これは関数解析の L2 内積そのもの——⟨X,Y⟩=E[XY] と見れば、
確率変数は内積空間の元、コーシー–シュワルツはその幾何です。ここから
∣Cov(X,Y)∣≤σXσY が出て、相関係数 ρ=Cov(X,Y)/(σXσY)∈[−1,1] が
定義できます。ρ は「X と Y の直線的な連動の強さ」を測る、内積の言葉での「なす角の余弦」です。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- 「無相関 ⇒ 独立」ではない。 独立なら Cov=0(無相関)だが、逆は偽。相関は「直線的な」連動しか捉えない。
X∼N(0,1), Y=X2 は無相関だが明らかに従属。独立は「あらゆる」関数で積が割れる、はるかに強い条件。
- 期待値・分散が存在しない分布もある。 コーシー分布は ∫xfdx が発散し、期待値すら定義できない。
「平均は必ずある」と思い込まない。不等式は可積分性を前提にしている。
- チェビシェフは緩い。 k=2σ で上界 1/4。正規分布の実際の 2σ 外は約 4.6%。
チェビシェフは分布に依らず成り立つ代償に甘い。だが「n→∞ で 0」を言うにはこれで十分。
この章のまとめ
- 期待値 = 積分、分散 = ずれの二乗平均。線形性・独立時の積分解・独立和の分散加法性が基本道具。
- 独立同分布の平均 Xˉn は Var(Xˉn)=σ2/n→0。散らばりが 1/n で消える。
- マルコフ→チェビシェフが確率を上から抑える。イェンセンは凸性、コーシー–シュワルツは L2 の幾何(相関)。
チェビシェフ+分散 σ2/n = もう大数の弱法則の骨格。
次章では、Xˉn→μ の「→」に何種類もの意味があること——確率変数の収束の諸相を整理します。