第1章 複素微分とコーシー–リーマン方程式
「複素数で微分できる」は、なぜそんなに特別なのか
微積分で見たように、実関数の微分可能性はわりと緩い条件でした。無限回微分できてもテイラー級数が
元に戻らない病的な関数すらある(微積分第6章の e−1/x2)。ところが、舞台を複素数に移して
「複素数として微分できる(正則)」という条件を課すと、状況が一変します。一度微分できれば自動的に何回でも
微分でき、必ずべき級数に展開でき、値は境界だけで決まる——実解析での「例外」が、複素解析では「定理」になる。
なぜこんなに強いのか。カギは、微分の定義に現れる極限 h→0 が、複素数では平面上のあらゆる方向から
0 に近づける点にあります。実数では左右2方向だけでしたが、複素数では無限の方向。そのすべてで同じ極限をもて、
という要求が、途方もなく強い制約——コーシー–リーマン方程式——を課すのです。この章で、その制約を導きます。
複素微分は「あらゆる方向からの極限が一致」を要求する超強力な条件。その帰結がコーシー–リーマン方程式。
複素数と複素平面
複素数 z=x+iy(x,y∈R、i2=−1)は平面上の点 (x,y)。絶対値 ∣z∣=x2+y2、共役 zˉ=x−iy、
極形式 z=r(cosθ+isinθ)=reiθ(r=∣z∣、θ=argz が偏角)。掛け算は「絶対値を掛け、偏角を足す」
=回転と拡大——この幾何的意味が、複素微分の等角性(第2章)に直結します。C は
体であり、代数閉体(代数学の基本定理、本章第5章で証明)でもあります。
複素微分
定義 複素微分・正則
領域(連結開集合)D⊆C 上の関数 f が点 z0 で複素微分可能とは、極限
f′(z0)=limh→0hf(z0+h)−f(z0)(h∈C)
が存在すること。D の各点で複素微分可能な f を D 上正則(holomorphic)という。
形は実微分とまったく同じ。決定的な違いは h∈C で、h が平面上のどの方向から 0 に近づいても、
商が同じ値 f′(z0) に収束せねばならないこと。この「方向によらない」という一点が、次の方程式を強制します。
コーシー–リーマン方程式
f=u+iv(u,v は実部・虚部、x,y の実関数)と書き、h を実軸方向・虚軸方向から近づけて比較します。
定理 コーシー–リーマン方程式(必要性)
f=u+iv が z0=x0+iy0 で複素微分可能なら、u,v は (x0,y0) で偏微分可能で
∂x∂u=∂y∂v,∂y∂u=−∂x∂v (コーシー–リーマン方程式).
このとき f′(z0)=ux+ivx=vy−iuy。
証明
極限は方向によらないので、2通りの近づけ方で計算して等値する。
実軸方向 h=t (t∈R, t→0):
f′(z0)=limt→0tf(z0+t)−f(z0)=ux+ivx.
虚軸方向 h=it (t→0):
f′(z0)=limt→0itf(z0+it)−f(z0)=i1(uy+ivy)=vy−iuy.
両者が等しいので、実部・虚部を比較して ux=vy、vx=−uy。∎
∎
証明はたった2行の計算——「実軸方向」と「虚軸方向」からの極限を等しいと置くだけ。でも、たった2方向を
比べただけでこれだけの制約が出る。全方向で一致することの、ほんの一部を使っただけでこの強さです。逆も
(少し条件を足せば)成り立ちます。
定理 コーシー–リーマン方程式(十分性)
領域 D 上で u,v が C1 級(偏微分が存在して連続)で、コーシー–リーマン方程式を満たすなら、f=u+iv は D 上正則。
証明
C1 ゆえ u,v は全微分可能(微積分第9章):Δu=uxΔx+uyΔy+o(∣h∣) 等。
h=Δx+iΔy として Δf=Δu+iΔv を CR 方程式で整理すると
Δf=(ux+ivx)(Δx+iΔy)+o(∣h∣)=(ux+ivx)h+o(∣h∣)。ゆえ hΔf→ux+ivx(方向によらず)、複素微分可能。∎
∎
十分性の証明で、微積分の全微分(C1⇒ 全微分可能)が本質的に効いています。CR 方程式は
「u,v の変化がちょうど『複素数 (ux+ivx) を掛ける』形にまとまる」ための条件——だから複素微分が
方向によらず定まるのです。
例 正則な関数・そうでない関数
- f(z)=z2=(x2−y2)+i(2xy):ux=2x=vy、uy=−2y=−vx。CR 成立、正則。f′(z)=2z。
- f(z)=zˉ=x−iy:ux=1, vy=−1 で ux=vy。CR を満たさず、どこでも正則でない。「共役をとる」は複素微分できない。
- f(z)=∣z∣2=x2+y2(v=0):CR は 2x=0, 2y=0、すなわち原点でのみ複素微分可能だが、0 の近傍で正則でない。
zˉ や ∣z∣2 が正則でないのが要点です。「複素数を実部・虚部でいじる」自然な操作の多くは、複素微分できない。
正則性は、それほど特別で稀な性質なのです。
正則性の言い換え:∂zˉf=0
CR 方程式は、ヴィルティンガー微分を使うと一行で書けます。この形が正則性の本質を鮮やかに表します。
定義 ヴィルティンガー微分と正則性
∂z∂=21(∂x∂−i∂y∂)、∂zˉ∂=21(∂x∂+i∂y∂) とおくと、
CR 方程式は
∂zˉ∂f=0
と同値。f が正則 ⟺f は「zˉ に依存しない」(z だけの関数)。
「正則 = zˉ を含まない」——z2 は正則、zˉ や ∣z∣2=zzˉ は zˉ を含むので正則でない。この直感は
非常に使えます。多項式・べき級数・ez,sinz など「z だけで書ける」ものが正則、共役や実部・絶対値が
混じると正則でない、と即座に見分けられます。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- 複素微分は実微分より遥かに強い。 h→0 が全方向で一致を要求。R2→R2 の写像として全微分可能でも、CR を満たさなければ複素微分できない。
- CR 方程式だけでは正則を保証しない。 偏微分の連続性(C1)も要る(病的な反例がある)。実用上は C1+CR で正則。
- zˉ, ∣z∣, Rez は正則でない。 「zˉ を含む」から。正則= z だけの関数(∂zˉf=0)。
- f′(z) は一つの複素数。 方向によらず定まる(それが複素微分可能の意味)。実の方向微分のように方向ごとに違う値、ではない。
この章のまとめ
- 複素微分は h→0 が平面の全方向で同じ極限をもつことを要求する、実微分より遥かに強い条件。C の掛け算=回転+拡大。
- 実部・虚部で書くとコーシー–リーマン方程式 ux=vy, uy=−vx が必要。C1+CR なら十分(正則)。f′=ux+ivx。
- 一行で書くと ∂zˉf=0:正則 = zˉ を含まない(z だけの関数)。zˉ,∣z∣2 は正則でない——正則性は特別で稀な性質。
次章は、正則関数の幾何的な意味——調和関数との関係と、角度を保つ等角性を可視化しながら見ます。