第3章 サードの定理
「正則値なんて、本当にあるのか」への答え
前章の正則値定理は「正則値の逆像は多様体」と言いました。でも、そもそも正則値は存在するのでしょうか? もし臨界値ばかりで正則値が滅多に無いなら、正則値定理は絵に描いた餅です。
サードの定理が、この不安を完全に解消します——臨界値の集合は測度ゼロ。つまり「ほとんどすべての値が正則値」。 臨界値( がつぶれる値)は、値域の中でほんの“薄い”集合しか占めない。だから正則値は稠密にあり、いつでも 一つ選べる。 を多様体にしたければ、 をわずかにずらして正則値にすればよいのです。この「ほとんどの値は 良い」という事実は、微分位相幾何学(横断性・写像度・モース理論)の全体を支える基盤であり、 測度論の測度ゼロが幾何に効く美しい例です。証明はやや技巧的ですが、主張の意味と使い方を しっかり掴みます。
サードの定理:なめらかな写像の臨界値の集合は測度ゼロ。ゆえに正則値は(ほとんど至る所)存在し、稠密。
臨界点と臨界値
定義 臨界点・臨界値
の点 が臨界点とは、 が全射でない(階数 )こと。臨界点の像を臨界値という。 臨界値でない値が正則値(前章)。
(低次元から高次元)なら は決して全射になれず、すべての点が臨界点——だが像 全体が測度ゼロ (低次元の像は薄い)。 なら、臨界点はヤコビ行列の階数が落ちる点( 変数なら の点)。いずれの場合も、 臨界値は薄いというのがサードの主張です。
サードの定理
定理 サードの定理
を (十分に )写像とすると、 の臨界値の集合は で測度ゼロ(ルベーグ測度 )。 したがって、正則値の集合は で稠密(ベールのカテゴリー的にも大きい)。
証明
証明の心は「臨界点の近くでは、 の像が薄くつぶれる(微分がつぶれるから)」を、テイラー展開と細分で定量化する こと。 変数なら「 の点の像は、 がそこで平らなので値が集中しない」という直感です。結論の使い方は明快です。
系 正則値はいつでもとれる
測度ゼロの集合の補集合は稠密(空でない開集合を含む)。ゆえ、任意の に対し正則値が存在し、しかも与えられた 値の近くにいくらでも正則値がある。「 を多様体にしたい」なら、 をわずかに動かして正則値にできる。
応用:横断性
サードの定理の最も重要な応用が、横断性——「なめらかな対象は、一般の位置では“素直に”交わる」という原理です。
定義 横断性
部分多様体 が横断的()に交わるとは、交点 で接空間が を張ること 。横断的なら、交わり はなめらかな部分多様体(次元 )。
定理 横断性定理(トム)
サードの定理より、写像 は、 に横断的になるよういくらでも小さく摂動できる(横断的な写像が稠密)。 「一般の位置では横断的」——退化した交わり(接して交わる等)は、わずかにずらせば解消できる。
「 つの曲線が接して交わる(退化)状態は不安定で、ちょっと動かせば普通に交わる(横断的)」——サードの 「臨界値は薄い」が、この安定性を保証します。横断性は微分位相幾何学の中心概念で、次の写像度や 交差理論を支えます。
応用:写像度
注意 写像度への道
コンパクト多様体間の写像 ( 連結)について、正則値 の逆像 は有限個の点( 次元多様体、 正則ゆえサードで存在)。各点での の向き(符号)を数えた が 写像度——これは正則値 の選び方によらない位相不変量(微分位相幾何)。 複素解析の巻き数・位相幾何のブラウワー度の、多様体版。サードがなければ「正則値 を とれる」が保証されず、写像度が定義できない。
「正則値の逆像は有限個の点で、その符号つきの個数が写像度」——サードの定理が、この定義を可能にします。 写像度は代数学の基本定理・ブラウワーの不動点定理・ベクトル場の指数 (ポアンカレ–ホップ)を統一的に扱う、微分位相の中心的な不変量です。
つまずきポイント
注意 よくある誤解
- サードは「臨界値」が測度ゼロ(臨界点ではない)。 臨界点は大きい集合でありうる(定値写像なら全点が臨界点)。薄いのは値(像)の方。
- なら全点が臨界点だが、像 全体が測度ゼロ。 低次元多様体の像は高次元で薄い(曲線は平面で測度ゼロ)。
- 正則値は稠密(ほとんど至る所)。 だから を多様体にしたければ を動かせばよい。正則値定理を実際に使える定理にする。
- 横断性=一般の位置での素直な交わり。 退化した交わりは摂動で解消。サードが安定性を保証。
この章のまとめ
- サードの定理:なめらかな写像の臨界値の集合は測度ゼロ(ルベーグ測度)。証明はテイラー展開+細分で「臨界点の像は薄い」を定量化。
- 帰結:正則値は稠密(ほとんど至る所存在)。前章の正則値定理が実際に使える—— を動かせば正則値にできる。
- 応用:横断性(一般の位置では素直に交わる、退化は摂動で解消)と写像度(正則値の逆像の符号つき個数、位相不変量)。微分位相幾何の基盤。
可微分多様体の基礎が固まりました。次章から接ベクトルとテンソル——曲がった空間で「方向」と「微分」を定義し直します。