数学の作り方 How to make Mathematics

第4章 接空間と接ベクトル

曲がった空間に、「まっすぐな方向」を貼り付ける

平面 R2\mathbb R^2 では、ベクトル(矢印)はどこでも自由に足したり動かしたりできました。でも球面の上ではどうでしょう。 球面上の点 pp での「方向」は、pp接する平面の中にしかありません(矢印を球面から浮かせるわけにはいかない)。 しかも、離れた 22 点の接平面は別物——ベクトルを勝手に平行移動できない。

そこで各点 pp ごとに、そこでの「まっすぐな方向」全体=接空間 TpMT_pM を定義します。これは pp に接する nn 次元のベクトル空間。曲がった多様体を、各点で局所的に線形化した“最良の平面”です。難しいのは、 外の空間なしに(内在的に)接ベクトルを定義すること。その鍵は「接ベクトル = 方向微分の作用素」という見方—— ベクトルを「その方向へ関数を微分する操作」と同一視するのです。この抽象化により、微積分の方向微分・勾配が 曲がった空間へ移植され、微分 dfdf(写像の線形近似)が接空間の間の線形写像として定義できます。

各点 pp接空間 TpMT_pM = そこでの方向全体(nn 次元ベクトル空間)。接ベクトルは「方向微分の作用素」。

接ベクトルの2つの定義

接ベクトルには、同値な2つの定義があります。「曲線の速度」(幾何的)と「微分作用素」(代数的)です。

定義 曲線による定義

pp を通る曲線 γ:(ε,ε)M\gamma:(-\varepsilon,\varepsilon)\to Mγ(0)=p\gamma(0)=p)の「速度」を接ベクトルとする。2曲線は、あるチャートで (φγ1)(0)=(φγ2)(0)(\varphi\circ\gamma_1)'(0)=(\varphi\circ\gamma_2)'(0)(速度ベクトルが一致)のとき同じ接ベクトルとみなす(チャートによらない)。

定義 微分作用素(微分子)による定義

pp での接ベクトルとは、pp の近くのなめらかな関数に作用する微分子(derivation)XpX_p: 線形で、ライプニッツ則 Xp(fg)=Xp(f)g(p)+f(p)Xp(g)X_p(fg)=X_p(f)\,g(p)+f(p)\,X_p(g) を満たすもの。曲線 γ\gamma に対応する微分子は Xp(f)=ddt0f(γ(t))X_p(f)=\dfrac{d}{dt}\Big|_{0}f(\gamma(t))γ\gamma 方向の微分)。

2つの定義は同値です(曲線の速度 ↔ その方向への微分作用素)。「方向」を「その方向へ微分する操作」と同一視するのが 微分作用素による定義の巧妙さ——外の空間を参照せず、多様体の上の関数だけで接ベクトルが定まります。チャートで 座標 (x1,,xn)(x^1,\dots,x^n) をとると、基底が現れます。

定理 接空間

pp の接ベクトル全体 TpMT_pMnn 次元ベクトル空間接空間)。チャートの座標 (xi)(x^i) に対し、 偏微分作用素 x1p, , xnp\frac{\partial}{\partial x^1}\Big|_p,\ \dots,\ \frac{\partial}{\partial x^n}\Big|_pTpMT_pM の基底。接ベクトルは Xp=iaixipX_p=\sum_i a^i\dfrac{\partial}{\partial x^i}\big|_p と一意に書ける。

「座標 xix^i の方向への偏微分 /xi\partial/\partial x^i」が基底。微積分の偏微分が、そのまま接空間の基底ベクトルに なります。曲がった MM の各点に、Rn\mathbb R^n と同型な接空間が貼り付いた——これらを束ねたのが接束です。

接束と余接束

各点の接空間を全部集めると、それ自身が多様体になります。

定義 接束・余接束

すべての接空間の非交和 TM=pMTpMTM=\bigsqcup_{p\in M}T_pM接束という(2n2n 次元の多様体、各点に Rn\mathbb R^n が乗った 「ファイバー束」)。各接空間の双対空間 TpMT_p^*M(接ベクトルに数を返す線形汎関数=余接ベクトル)を 集めた TMT^*M余接束という。座標の微分 dxidx^idxi(/xj)=δjidx^i(\partial/\partial x^j)=\delta^i_j)が TpMT_p^*M の双対基底。

接束 TMTM は「多様体の各点に接空間が連続的に乗った空間」。余接束 TMT^*M双対で、dxidx^i(座標の 微分)を基底にもちます。この dxidx^i が、後の微分形式の材料です。TMTM の切断(各点に接ベクトルを なめらかに割り当てる)が次章のベクトル場になります。

微分(押し出し)

なめらかな写像 f:MNf:M\to N は、接空間の間の線形写像を誘導します。これが写像の「最良の線形近似」です。

定義 微分(押し出し)

f:MNf:M\to N の点 pp での微分押し出しdfp:TpMTf(p)Ndf_p:T_pM\to T_{f(p)}N を、接ベクトル XpX_p(曲線 γ\gamma の速度)を 像曲線 fγf\circ\gamma の速度へ写す線形写像として定める。作用素としては (dfp(Xp))(g)=Xp(gf)(df_p(X_p))(g)=X_p(g\circ f)。チャートでは ヤコビ行列

ff を曲線に施し、速度ベクトルを押し出す」——これが微分 dfdf。チャートで表せば微積分のヤコビ行列そのもの、 前章の階数・はめ込み・沈め込みは、この dfdf階数の話でした。連鎖律は d(gf)=dgdfd(g\circ f)=dg\circ df(線形写像の合成)——微積分の連鎖律が、接空間の間の線形代数として きれいに書けます。これで曲がった空間の上で、微分の全機構が動き出します。

注意 座標変換とテンソルの変換則

座標を変えると、接ベクトルの成分 aia^iaˉj=ixˉjxiai\bar a^j=\sum_i\frac{\partial\bar x^j}{\partial x^i}a^i(ヤコビ行列)で、余接ベクトルの成分は その逆・転置で変換する——「上つき添字(反変)」「下つき添字(共変)」の起源。この変換則で不変な量が テンソルで、物理(相対論のテンソル)の言葉になる。座標に依らない幾何を、成分の変換則で管理する。

つまずきポイント

注意 よくある誤解

  • 接ベクトル=方向微分の作用素。 「曲線の速度」と「関数を微分する操作」は同じもの。外の空間なしで内在的に定義できるのが微分作用素の見方。
  • 異なる点の接空間は別物。 TpMT_pMTqMT_qM は違うベクトル空間。勝手に平行移動できない(接続が要る)。
  • 微分 dfdf はヤコビ行列(接空間の線形写像)。 はめ込み/沈め込みは dfdf の階数の話。連鎖律は d(gf)=dgdfd(g\circ f)=dg\circ df
  • 上つき(反変)と下つき(共変)添字。 接ベクトルと余接ベクトルは双対で、座標変換で逆向きに変わる。テンソルの変換則の起源。

この章のまとめ

  • 各点 pp接空間 TpMT_pM = 接ベクトル(=方向微分の作用素、または曲線の速度)全体、nn 次元ベクトル空間。基底は座標の偏微分 /xi\partial/\partial x^i
  • 接束 TMTM(各点に接空間が乗る 2n2n 次元多様体)、余接束 TMT^*M双対、基底 dxidx^i)。微分形式の材料。
  • 写像の微分 df:TpMTf(p)Ndf:T_pM\to T_{f(p)}N(押し出し、ヤコビ行列)。連鎖律は d(gf)=dgdfd(g\circ f)=dg\circ df。座標変換の反変・共変がテンソルを生む。

次章は、各点に接ベクトルを割り当てる——ベクトル場と流れ、そして毛玉の定理を扱います。